俺は俺自身でいなきゃならない オアシスのデビュー曲「Supersonic」と「個人」という概念について

画像 オアシス「スーパーソニック」プロモーションビデオより

以前、様々な外来文化の中で埋もれてゆく日本文化に対する懸念を抱いた高校生の頃のお話をしました。

しかし、そんな懸念を抱きつつも、高校生の頃はイギリスのUKロックを良く聴いていました。

中学生の時にオアシスというロックバンドのPVをテレビで観たのがきっかけでした。

そのオアシスのデビュー曲が「Supersonic」という曲です。

イギリスのロックバンド「オアシス」について

オアシスといえば、代表曲「Don’t Look Back In Anger」が英国の国民歌と呼ばれるほどで、収録された2ndアルバムの曲は日本のCMなんかでも良く耳にしますが、本人によればオアシスの歌詞にあまり深い意味はないのだそうです。

あるとすれば、1stアルバムの1曲目「Rock ‘N’ Roll Star」ぐらいなものなのだとか。

Rock ‘N’ Roll Star」の歌詞の内容は自分たち自身を歌ったものと思われます。

内容は

(イギリスの労働者階級に生まれ)労働に追われて1日があっという間に過ぎていき、なかなかそこから抜け出せない。

ロックスターになって栄光を掴みとりたい。でも周りは馬鹿にしてそれは時間の無駄だという。

いや絶対に夢を叶えてみせると、その夜のステージで俺はロックンロールスターになるんだと宣言するぜ

というような内容の歌詞です。

オアシスの初期の曲は労働者階級の絶望感や挫折感が色濃く現れているといいます。

「Supersonic」もそんな曲の一つではないかと思います。

1stアルバムの1曲目以降は全然意味なんてないようにも思えません。オアシスの1stアルバム「Definitely Maybeは野心に満ちたアルバムで、絶対スターになってここから抜け出してやるんだといったギラギラしたものを感じます。

彼らは最初っから、俺様気取りで大口叩きなところはありましたが、1stアルバムの成功で彼らはスターとなった訳ですから、2nd以降は確かにメッセージ性が歌詞の内容からは感じられないといえばそうかもしれません。

要するに彼らは始めに全部言いたいことを言ってしまったのだと思います。

しかも本当にロックスターになってしまいましたしね。

「Supersonic」の歌い出しの歌詞「俺は俺自身でいなきゃならない 他の誰かにはなれやしないんだから」というメッセージは中学生の頃の私にとっては強烈なメッセージでした。

 

自分探し

「自分とは何か」多くの人は、思春期を迎えるとこのような人生の壁にぶち当たります。そこから将来自分は何になるのか、本当にやりたいことは何か、生きる意味とは何かと、自分探しの旅が始まります。私も随分長い間あれこれと悩みながら自分探しをしてきました。

今の10代の人達がどんなことを考えているのかはよく分かりませんが、私は自分が本当に何がしたいのか、どんなことに向いているのか、何をして暮らしていけばいいのかなどと随分悩んだものです。つまり「自分の中に個性を見出す」ことに苦労しました。

これは「個人」とうい概念があるからこその悩みなのだと思います。

個人」という概念や言葉は日本にはもともとありませんでした。

明治以降に入ってきた西洋の考え方だといいます。

「個人」という概念を持ち合わせていないとはどういうことなのでしょうか。

 

大きな人

それは「大きな人」です。

いい例として、「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難(かんなん)を共にして国家の大業は成し得られぬなり。」という言葉で有名な西郷どんこと、西郷隆盛のような人です。

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西郷隆盛文政10年〜明治10年(1828年〜1877年) 出典 国立国会図書館ホームページより

 

西郷どんはいうまでもなく、私利私欲とはもちろん無縁の人で、日本の国のために身を捧げた方です。

西郷どんは本当の名前は「隆盛」じゃないという説があります。

戸籍ができたばかりの頃、部下が誤って届けを出したらしく、それを知った西郷どんは「はは(笑)、おいどんの名前は隆盛になったでごわすか」と言ったとか言わなかったとか。

要するに自分の名前さえどうでもいい人でした。こういう人でないと明治維新や廃藩置県といった大事業は成し得ないのでしょう。

西郷どんにとっての自分とは「薩摩」であり、もっといえば「日本の国」だったのではないでしょうか。個人的な小さな問題を問題としていては大きな仕事はできません。

極端な例でしたが、日本の国においては本来「個人」は無く、家族や地域の一部を構成する有機的な存在としての一人の人といった感覚でしか個人を捉えきれていませんでした。

多くが農村の共同体社会ではスタンドプレイは許されず、常に全体のため、良い村人として振舞うこと、和を乱ないことが求められました。「出る杭は打たれる」という言葉があるように、日本では抜きん出た頭角や才能を表すと他人から疎まれ非難されるという風俗習慣というか特性があります。つまり、日本の社会においては「俺が俺である必要」はなく「俺はお前たちと一緒だ」が求められたのです。

オアシスを率いていたノエル・ギャラガー氏は日本のテレビ番組でAKB48と出演が一緒になり、のちに彼女達について「manufactured girl s group」と自身のブログで語ったそうです。Manufacturedとは大量生産される工業製品のような意味です。つまり個人の個性が認められないといったことなのでしょうか。

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AKB48風の格好をした女性

 

戦後日本を占領支配すべくやってきたマッカーサーは帰国した際の上院の公聴会にて、日本人はどういった存在かという問いに対して、「ドイツ人は成熟した大人であるのに対して、日本人は12歳の子供のようである」というような返答をしたようです。

食糧支援などでそれまでマッカーサーに恩義を感じていた日本人もそれを知ると一気に人気の熱も冷めたといいますが、その真意はというと日本人には「個人」がないということだったようです。

つまり、彼にしてみれば日本人は12歳の子供のように自主自立した個人ではないと感じていたのでしょう。

欧米の社会では一人一人の独立した個人によって社会が形成されていると考えられているそうです。

西洋近代思想は一人の人間が個人としていかにして生きていくのかが大きなテーマとして背景にあります。人物の名前の順番からいって日本では姓名の順ですが、西洋人の多くは自分の名前が先に来ます。このことからも日本は個人よりも「イエ」つまり所属集団を大切にしているのが分かるかと思います。

「個人」としてどう生きるのかというのは日本人にとっての長い間の課題といいますか、回避してきた問題のように思えます。

そもそも日本人は「近代」という時代さえも越えられずに来てしまったのかもしれないと感じます。

でもそれが日本らしさであり、良さなのだとも思えますが。

オアシスが「Supersonic」で言っている声を上げることのない「滝の下に住む男」とは日本人ような人のことなのでしょうか。

 

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Supersonic」「Rock ‘N’ Roll Star」収録のオアシスのファーストアルバム

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