日本人の誕生 「縄文」から「弥生」へ

▲Photo by (c)Tomo.Yun yunphoto.net

前々回、縄文人のルーツについて述べました。

日本人はどこから来たのか?

日本列島の北からやってきたマンモスハンター達と、南から黒潮に乗ってやってきた海洋民達が融合して縄文文化を生み出し、その縄文人は遺伝子的にY染色体のDというグループに分類される人達で、この縄文人が日本人のベースとなっているのではないかと考えられるということでした。

日本人の53.9%はOグループ、32.2%がDグループの子孫だとされています。この半数以上を占めるOというグループは中国や朝鮮といった東アジアにもみられる遺伝子です。Dグループは前回述べましたとおり東アジアではほとんどみられないということです。

このOグループは稲作文化をもたらした渡来人だったと考えられています。

水田稲作をもたらした渡来人

稲作が始まったのは今から12000年前の中国は長江中流域で、洞窟に暮らす人々が野生の稲を育て始めたことが確認されています。そこから長江を下り、河口付近のカボト遺跡から7000年前の熱帯ジャポニカが発掘されていることから、この地域に暮らしていた人々によって日本列島に稲がもたらされたとされています。

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ここで漁業を営む人々は今でも台風などによって日本まで流されてしまうことがあるのだといいます。

長江河口辺りの漁労文化と共通性が見出されている対馬では今でも赤い稲穂の古代米として熱帯ジャポニカの稲が育てられており、祭りでは信仰の対象となっています。

様々なルートで稲作技術がもたらされたと考えられています。

稲作の伝播

出典:佐々木高明『日本文化の基層を探る』p96より

2000年前の遺跡で福岡県の板付遺跡は、縄文時代にはみられない掘りを巡らせた環濠集落で、ここで水田稲作が営まれていました。

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福岡県 板付遺跡周辺 出典:福岡市の文化財

この辺りでは縄文人とは明らかに違う面長顔の渡来系の人の骨が発掘されており、2200年前の山口県は土井ヶ浜遺跡では大量の渡来系の人達の骨が見つかっており、その骨はすべて中国大陸の方向に向いて発掘されています。

この骨は中国で見つかった同じ年代の骨と特徴がとてもよく似ていることから、この時代に大挙して日本列島に渡来人が押し寄せてきていたと考えられます。

この頃、中国は春秋戦国時代で国中が戦乱に巻き込まれ、この戦禍から逃れてきた人々だったのではないかとされており、日本人のヒト白血球抗原(HLA)という血液中に含まれる白血球の血液型ともいえる遺伝子複合体を調べた結果、中国北部、長江河口付近の中部、南部、朝鮮半島といった様々な場所から、様々なルートを通って渡来してきたことが分かってきました。

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日本人の成り立ち

HLAハプロタイプは日本人の成り立ちに重要な示唆を与える。徳永勝士によると、日本人には大きく以下の4タイプの流れが認められる。

  • B52-DR2: 中国大陸北部から朝鮮半島を経て北九州・近畿へ
  • B44-DR13、B7-DR1: 満州・朝鮮半島東部から日本海沿岸へ
  • B54-DR4: 中国南部から琉球諸島を経て太平洋側へ
  • B46-DR8: 中国大陸南部から直接、あるいは朝鮮半島を経由して北九州へ

1.は中国北部、モンゴルの一集団に高頻度のタイプで、国内では九州北部から本州中央部にかけて多い。 2.は満州族、朝鮮民族に高頻度タイプで、国内では日本海側に多い。 3.は中国南部に多いタイプで、国内では沖縄や太平洋側に多い。 4.は国外では満州族と朝鮮民族のみにみられ、国内には九州北部から本州中央部にかけて多い。このタイプの姉妹タイプB46-DR9が東南アジアで最も高頻度でみられる。

さらにこれとは別に縄文系と想定される別の複数のハプロタイプが南九州や北東北に存在する。またアイヌは日本人と異なる型が多いという。

Wikipedia より

 

渡来人のルート

 

渡来人の渡ってきたルートは稲作技術が伝わってきたルートと一致します。

九州を始め西日本に進出した渡来人は2300年ほど前に大阪の平野平野までやってきて、縄文人の集落と渡来人の集落が分立しますが、水田稲作の技術を持ち、豊かな生活水準を持つ渡来人の人口が圧倒していきます。

そして縄文人と渡来人の戦いが始まります。この時代に、大量の矢が打ち込まれ死亡したと思われる縄文人の遺体が見つかっています。

その後名古屋の濃美平野まで進出した渡来人ですが、これから先は深い森が立ちはだかり、多くの縄文人が暮らす東日本には容易に進むことができなかったようです。

 

縄文人と渡来人が日本人のもとになった

2100年前に渡来人はようやく小田原まで進出します。しかし、そこではそれまでとは違い、縄文人と渡来人との交流がみられます。

多くの水田を備えた中里遺跡では、縄文系の土器が多数出土されており、縄文系の人々が多数を占めていたと考えられています。

深い森を切り開く縄文人の技術があってこそ土地が開墾でき、渡来系の人々が水田を築いていくことができたのです。縄文人と弥生人がお互い知恵を出し合い、技術を持ちあい、融和して新たな文化を築き上げていきました。

それが弥生文化です。はじめは衝突もありましたが、一方が一方を滅ぼすことはありませんでした。

渡来人にしても、もともと戦禍を逃れてやってきたのですから、争いは嫌だったのではないでしょうか。

以後地域によって異なりますが、縄文系の人々と渡来系の人々が血縁を結んでいき、弥生人が生まれました。

遺伝的にも文化的にも日本人のベースとなるのがこの弥生人だと言えます。

聖徳太子が制定した十七条憲法の第一条に、「和を以って貴しとなす」とあるように、日本の国は古来、様々な文化を持った人達の融和によって築き上げられてきた平和な国だったことが分かります。

 

レキシ 狩りから稲作へ

最後に狩猟生活から稲作生活への変化を歌った、レキシさんの『狩りから稲作へ』という曲を紹介します。

ライブバージョンなので13分超えと長いのですが、お客さんとのやりとりや、アドリブ芸が素晴らしいと敬服します。

ミュージシャンなのにそこは芸人並。

でも音楽的に素晴らしく完成度が高い。

ふざけているようでいて、内容は決してそうではなく、歌詞の内容は胸にグッとくるような、こみ上げるものがあります。

通常バージョン(歌詞つき)はこちら

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

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