古墳にコーフン!?巨大な墓の出現とヤマト政権の成立

弥生時代は豊かさとともに
争いをもたらした

さて、縄文人と渡来人の融和により、縄文人の自然と共生する豊かな精神性と、渡来人の持水田稲作技術によって、現在にも繋がる日本のライフスタイルが確立しました。

自然の恵みに感謝しつつ、村のみんなで協力して耕作によって豊かな生活を送る弥生文化。弥生人の誕生です。

現在遺伝子学的にも縄文人と渡来人が現在の日本人を構成していると見られています。

しかしながら、弥生時代に入ると縄文時代には無かった金属製の武器が登場します。

世界のどの地域でも農耕社会が成立すると同時に、戦いのための武器や防御設備を持つ集落が出現し、余剰生産物をめぐって争いが繰り広げられることが知られています。

この時代に日本列島で鉄器や青銅器などの金属器の使用が開始されました。鉄器と青銅器が北部九州地方に朝鮮半島よりもたらされ、やがて鉄器は主に実用品として、銅矛や銅剣、鈴のように音のなる銅鐸といった青銅器は主に祭祀の道具として使用されるようになっていきました。

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出典:Wikipedia User:Sailko 袈裟襷文銅鐸 静岡県出土(パリ ギメ美術館蔵)

日本列島は争いの時代に入り、やがて幾つもの集落を武力で統合する小国が分立していきます。

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吉野ヶ里遺跡

福岡県の志賀島で発見された「漢委奴國王」と刻まれた金印の出来た時代や、いまでも熱心に論争が繰り広げられる邪馬台国連合のあったとされる時代を迎えます。

邪馬台国や卑弥呼についての研究で日本史学会はかなりの労力を消費しましたが、今でも何もはっきりしていません。

第一にこの論拠となっているのは「魏志倭人伝」を始めとする中国の文書の記録のみであり、古事記や日本書記にも一切記述されていません。事実100年発掘してもそれに関連するものは何も見つかりません。

結論をいえば邪馬台国の記述は日本ではないのではないかと思います。

古代のロマンを夢見て溺れ、熱を上げて国中で論争となり、もはや邪馬台国が日本には無かったとは口が裂けても言えない、引こっみがつかない状態になってしまった。100年言い続ければ嘘も本当になるということではないでしょうか。

参考

「邪馬台国論争の真相と正当化の概念が無い日本社会」

 

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大規模な古墳の造営のはじまり

それはさておき、争いの時代から小国分立時代をへて、やがて巨大な力を持つ王権が生まれ、巨大な墳丘を築き始めます。

古墳時代の到来です。

3世紀後半になると大規模な前方後円墳が西日本を中心として出現していきます。

その規模はというと100メートルはざらで、大阪の「仁徳天皇稜」に至ってはなんと墳丘長486メートル。高さは35.8メートル。(1辺が230メートルのエジプトのクフ王のピラミッドよりも大きい!)墓域面積は世界一を誇ります。建造した王権が如何に強力な権力を持っていたかを物語ります。

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仁徳天皇陵古墳 出典:www.osaka-info.jp

古墳の上には埴輪が並べられ斜面は葺石が敷かれていたようです。埴輪は人の形をしたものや動物の形があったり、円筒形、家の形をしたもの、靭 (ゆぎ) ,鎧,太刀,鞆 (とも) などの武器の形をしたもの、腰掛(こしかけ)、衣蓋 (きぬがさ) 等様々な種類がありまして、こういった埴輪で古墳を囲むことで人が古墳に入ることを防ぐと同時に捧げ物の意味もあったかと思います。

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首長の遺体は木棺や石棺に入れて副葬品とともに石室に納められました。

古墳時代のはじめは鏡や碧玉製の装飾品、鉄製の農耕具などの呪術的・宗教的な色彩の強いものが多いことから、司祭的な性格を持っていたと考えられています。しかし次第に鉄製の武器や武具、馬具の占める割合が多くなっていったことから司祭的性格から武人的性格へと変容していったことが伺われます。

そんな古墳時代を知る上で近年大発見がありました。

一年ちょっと前の日経電子版の記事を引用します。

 

「甲を着た武人」が治めた 古墳時代のハイテク地域

歴史新発見・群馬県渋川市の金井東裏遺跡

日本経済新聞 電子版 2015/4/27 6:00

甲(よろい)を着た武人が榛名山の噴火で埋もれていたのが見つかり、全国的な注目を集めた群馬県渋川市の金井東裏遺跡。鉄製の矛や鏃(やじり)ほか希少で多様な鉄製品が出土し、隣接する金井下新田遺跡からは鍛冶工房跡が見つかった。圧倒的に有用で貴重だった馬を飼育していた跡も発見。5世紀末から6世紀初頭、古墳時代後期の東日本で屈指のハイテク最先端地域の様子が鮮明に浮かび上がってきた。

(中略)

鉄製の甲が着装されたままの状態で発見されたのはもちろん初めてだ。細心の注意を払い、発見した遺物の保存と調査が行われた。

武人は両肘、両膝をともにつき、前のめりに頭部を地面につけた姿勢で、小札(こざね)と呼ばれる厚さ1ミリほどの短冊状の鉄板800~1000枚ほどをひもでつづった甲を着ていた。地面につけた頭部をCTスキャンしたところ、頭の下から鉄板を横に鋲(びょう)で留めた冑(かぶと)が見つかった。

火砕流に被災した時、武人は甲冑を着装していたわけだが、すぐそばには動物の骨で作られた小札甲がもう1領あった。骨製の小札甲が見つかったのは国内で初めてで、東アジアでは韓国で1例あるだけの極めて貴重な遺物だ。周辺では、鉄製の矛や鏃20数本なども見つかり、多数の貴重な金属製品が散乱する先進的で豊かな文物が存在する生活実態が浮かび上がった。

(中略)

同遺跡の調査検討委員会の委員を務める専修大の土生田純之教授(考古学)は「6世紀初頭ごろの日常が断片的にではなく、生活状態として全体的にわかることが重要。古墳から出土する遺物とは異なり、一地域がまるごと残っていることが貴重」と意義を解説する。

では、その日常をくっきりと特徴付けるモノは何か。

馬である。遺跡には屋敷地の外に蹄(ひづめ)跡が多数残り、5世紀後半とみられる層からは馬の歯が3点出土。また、鉄の地板に金銅板をかぶせて鋲で留めた「剣菱型杏葉(ぎょうよう)」と呼ばれる馬の飾り金具も見つかった。馬を飼育していたことは間違いない。

(中略)

武人から約30メートル離れた場所で見つかった祭祀(さいし)遺構からは農耕具ほか170~180点もの鉄器が見つかった。鉄片の多さから大規模にムラ全体の単位で農耕儀礼や鉄器製作の祭りを行った可能性が指摘されている。日常的に鉄と接する機会が多かった地域であったと想像できる。

引用以上

この武人の身につけているものは100メートルの前方後円墳の被葬者の副葬品と同じレベルで、首長クラスの並々ならぬ身分と推定されており、ヤマト政権と関係深いとみられています。

また、胴体以外の鎧を身につけていないため、戦いの最中だったとは考えられず、逃げようとした形跡もない。噴火した榛名山の神の怒りを鎮めるために儀式をしていた可能性も考えられるとのことです。

この付近の遺跡で発掘される武器、武具、馬具といった遺物は当時の日本の最先端技術のもので、ここはハイテク地域だったといいます。

古墳時代において、石室に遺体と共に納められる副葬品はどの地域時代においても最先端の最高のものが当てがわれていたそうです。

今でいえば誰もが欲しがるタブレットやスマートフォン、ハイブリットカーや電気自動車といったハイテク技術を駆使した製品を奉るといったところでしょうか。

現在において神社の祭祀では神様に奉る「モノ」である「威儀物」といえば鉾といった武器や鏡、勾玉といったものが主体となっています。

こういったものは既にこの時代に確立していた形式であり、時代の方向の向きが古墳時代は未来を、現代は過去を向いているなと思った次第です。

しかし、神社は今も生きていますが、古墳は遺物です。

俺が死んだら古墳をつくってくれ」なんてことはどんなお金持ちでも言わないでしょう。

日本のはるか昔のことを語ってくれる古墳ですが、皆さんは古墳に行ったことありますか?興味がありますか?

そんな古墳の魅力を歌って活動する方がいらっしゃるので、最後に一曲どうぞ。

「古墳にコーフン協会」という古墳シンガーのまりこふんさんの率いる古墳にコーフン(興奮)する団体があるそうです。

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

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