スサノオ神話から三種の神器の「剣」の意味するところを知る

▲画像 新生古事記伝 日本創世記 日本はどのようにして出来たのか?より
日本人にとって重要な剣や刀といった武器について

前回のテーマは侍・武士についての記事でした。

ニッポンはサムライの国か?桜と武士 武士道精神の源=侍殿防護の神勅 

武士の魂は「刀」いわれます。しかし、武士が実際に戦で使用する武器は槍です。刀は実戦的な武器というよりも、常に帯刀することで自らの身分を示す象徴的なアイテムであったように思えます。

遡ること遥か昔、古墳から見つかる銅矛や銅剣も武器ではなくフェイクであり、多くが祭祀に使用するために作られたと考えられています。

天皇の象徴である三種の神器の一つ「草薙の剣」も剣です。八咫の鏡は伊勢の神宮にお祭りされていますので、天皇陛下の元には剣と勾玉の二つ「剣璽」(けんじ)があります。この二つは普段は「剣璽の間」というところに安置され、戦前は天皇陛下が一泊以上外出され皇居をお離れになる際には「剣璽動座」といって侍従がこれを捧げ持って随行したそうです。

天皇陛下が崩御されると即座に「剣璽渡御の儀」が行われ、皇位継承の証として新しい天皇に引き継がれます。一時も皇位の座を開けてはならないということです。このように天皇家、そして日本にとって「剣」は象徴的なアイテムといえるのではないかと思います。ではこの「剣」が意味するものはなんでしょうか。

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超越的主権を持つ神

私たちの祖先を辿り辿り行き着く先は何でしょうか。そう「自然」とか「宇宙」になってしまいます。もともとこの領域で活動する神々こそが「超越的主権」を保持していました。

ここでいう「自然」とは外的な世界であり、「宇宙」とは内的世界、つまりは心の中で繰り広げられる創造力の源とも呼べる活動についてです。

「自然」=「神」=「超越的主権」

昔の生活は今以上に、まさに全てにおいてと言っていいほど自然に左右されており、自然の動向すなわち、神意を伺うことが神事として大変重要でした。また、それと同時に昔の人はその自然のなかにおいて、衣食住といった「モノ」を創り出します。そして、絵や文学、音楽や踊りといった文化芸術を生み出す人間の不思議な心の働きの中にも神様を見出していました

その神様は「シャグジ」という精霊であり、縄文時代にまでさかのぼる古層の神であるということが『精霊の王』著:中沢新一(講談社)という本の中で詳しく説明がなされています。

シャグジとは「サ音+ク音」=サク(裂く)すなわち境界を表す言葉であり、つまり境界の神様です。境界では何が起こるのかといいますと、夜と朝、裏と表、内と外といったようにその境界を超えることで劇的な変化、別世界への移行が可能となります。無から有、静から動、といった現象化をもたらす不思議な力を境界の部分に求めたのです。

この構造は目に見える世界にも通じることで、人間の主観で世界を見たとき、中心となるのは集落やクニといった人間社会そのものであり、境界とは神の領域である「自然界の荒ぶる驚異的な力」です。つまりここでいう境界とは人間社会と神の世界を結ぶ「神事」であり、古代の人々はこの部分に「超越的主権」を見出してしていたのです。

これを逆の立場からみて、超越的主権が社会の中心にあるということは、即ち人間がそれを持つということになります。

縄文の人々は、世界の中心たる真の王超越的主権」は社会の外にあるべきだと考えていたようですが、農耕社会を迎えた人々は富を巡って争いをはじめ、小さなクニが生まれるようになる頃、シャーマン(司祭)であり戦士である王によって社会の内部に持ち込まれることになります。これが中沢氏によれば小さな天皇制のはじまりということです。世の中を丸く治めるためにはこれが必要でした。

日本の天皇制の構造は「超越的主権」=「神」=「外来魂」を自然の内部からそれを取り出すことにあります。

この構造を見事に表現しているのが「スサノオ神話」であると中沢氏はいいます。そのことについて述べられている部分を以下に引用します。

この神話には国家が生まれる前の状態では、「超越的主権」のあり場所は、自然の内部にあったと語られている。人間の少女の人身御供を要求する、ヤマタノオロチという巨大な大蛇がそのことを表現している。この大蛇を倒すのがスサノオという英雄なのだが、この英雄は天上の神々の世界にいたときには、まるでその世界にとってのヤマタノオロチのような暴虐な存在だった。スサノオはこの性格をもつことで、自然の領域深く入り込んでいく資格をもったわけである。スサノオはこの性格をもつことで、自然の領域深く入り込んでいく資格をもったわけである。スサノオは大蛇と戦って倒し、その胎内から王権の象徴である剣を取り出して、土地神の娘と結婚して、地上の王権の基礎を打ち立てたのである。 (『精霊の王』/著:中沢新一/講談社 P.209〜210より引用)

この神話によりその過程が表現されているのだといいます。この力を使用してスサノオは地上の国造りの礎を築いた後、その後子孫であるオオクニヌシに事業を託し、自身は根の国に身を隠します。

オオクニヌシも国造りを終えた後は、天孫に国譲りして幽冥界へと身を隠します。いわば日本建国の立役者である二神が表舞台から去ってしまったのです。しかし、それにはそれなりの理由というものがありました。

スサノオの持つ荒々しい力」=「神の力」という後ろ盾を得て、王権と国家が確立し秩序が持たされた後、この力は封印されました。即ち神話や儀礼の中にのみ存在し、表舞台には現れることはありません。

刀は人を殺すためにあるのではなく、鞘に収まっていてこそ、その威力を発揮するのと同じです。刀は武器というよりも武力の象徴としての意味合いが強く、常にむき出しだと普段持ち歩くには少々不便です。やはり刀には鞘が必要です。

今でこそ神社に神様が常にいらっしゃるという考えですが、本来神様はお祭りの時にのみ降りてこられ、お祭りが終わるとお帰りになるという考えでした。現在の地鎮祭といった神社の外祭と同じです。神様に常に人間世界に存在されると逆に困るというのが昔の人達の考えでした。

「神様」=「自然界の荒ぶる力」という考えですから、常に社会の中に存在されるのは恐ろしい訳です。

この力は「荒御魂」(あらみたま)として同一の神様にあっても、神社の中で分けて別に祀られていることもあります。伊勢の神宮の内宮には天照大御神様の荒御魂をお祀りする「荒祭宮」(あらまつりのみや)が第一の別宮として設けられています。荒御魂とは、事にあたって動きを示す荒く猛々しい時の御魂をいうそうであります。

剣の意味することとは

少々小難しい話になりましたが、要するに三種の神器の一つである「剣」の意味するものは、自然界の強大な力=神の力を象徴として形に表した物といえます。

本来であれば生殺与奪の権利は自然界、すなわち神しか持っていませんでした。狩りを生業とした縄文時代の人々は争わず互いに協力しあって自然の脅威の中に暮らしていました。しかし、何度も言いますように、時代が狩りから稲作へと移行すると人々は金属の武器を手に余剰作物や土地を巡って争いを始めます。この時代になって人が人を殺すようになります。すなわち剣をはじめとする強力な金属製の武器によって生殺与奪の権、すなわち自然界の脅威的な力=神の力を手に入れることができたのです。

剣は境界を切り裂き(サク)、貫いて人の命を奪います。コスモロジー的にも剣は境界を破ることのできる、シャクジ=境界で活動する神の力を具現化したモノなのです。

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