日本の歴史 空白の百年の間に成立した大和王権の謎

▲6世紀頃のヤマト王権勢力図

雑多な内容でおおくりしております当サイト「美しい国ニッポン?」ですが、ホームのメニューバーの項目に「歴史」とありますように、当ブログでは歴史もテーマに扱っています。ですが遅々として進まず、検証すること「縄文時代」から始まって未だ「古墳時代」です。

前回の歴史記事

古墳にコーフン!?巨大な墓の出現とヤマト政権の成立

この古墳時代において「日本」という国が形を現してきます。

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ヤマト王権の成立

ヤマト政権は3世紀末に成立したとみられていますが、この時期は全く資料の無い空白の時代にあたります。

中国の晋時代の歴史書『晋書』に「倭(日本)の女王である壱与が西晋に使者を派遣した」という記述があり、これが西暦266年とされ、次に海外の文献に日本のことが出てくるのは、朝鮮半島の「好太王碑」に刻まれた「倭国が朝鮮半島に攻めてきて高句麗と戦った」という記述で、西暦391年のこととされています。

日本の歴史はこの百年以上もの記録の無い空白の時代に、現在も続く「天皇」を中心とする政権、「ヤマト王権」が成立します。日本が各地方で、有力な豪族によって統治していた時代を経て3世紀後半、奈良盆地に大型の前方後円墳が築造されています。

古墳時代中期の5世紀には最大規模の古墳はほとんど近畿地方に集中していたことから、地方の有力豪族の盟主的な存在としてヤマト王権が成立したとみられているわけです。

日本神話では九州の日向から東征によって大和に入った「神武天皇」が政権を打ち立てたことになっていますが、歴史学の世界では『古事記・日本書紀』の記述をそのまま信じて歴史とは考えません。

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初代 神武天皇

天皇家の祖先が西から日本を平定しながら大和に政権を築いたとなると、とうてい神武天皇一代で成せる事業とは考えられ無いし、神武以降の第二代綏靖(すいぜい)天皇から第九代開化天皇は欠史八代とも呼ばれ、実在しなかったとみられています。

何故なら、この時期の天皇は記述が異様に少ない上に、寿命が100歳越え連発と不自然な点が見られるからです。初代神武天皇にしても歴代の天皇の事績を投影して作られたモデルとしての天皇だったのではないかとも言われています。

では実際に実在した天皇はどこからか?というと、これも諸説ありますが、「ハツクニシラススメラミコト」という神武天皇と同じ別名を持つ第十代崇神(すじん)天皇ではないかと言われています。

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第10代 崇神天皇

ですが、『古事記・日本書紀』はあくまでも神話であって、まるっきり信用してはならないという訳でもなく、斉明天皇の時代に築かれた飛鳥池遺跡などは「記紀」の記述と合致するような遺跡ですし、全くあてにならない歴史と懸け離れたものではありません。

神話と歴史の狭間で、誕生したヤマト政権は神秘的であり、謎がその宗教性を高めているようにも思えます。

祭祀と軍事力に優れた王家

また、ヤマト政権がどのようにして分立していた地方の有力豪族達の「盟主的な存在」となりえたのかも謎です。ヤマト政権は圧倒的な力で他の豪族を従えたわけではありません。統治権の大部分は地方の各豪族にあり、緩やかな政治連合のリーダーからのスタートでした。

古代の王の条件として、「人々を自然災害や外的から守り、幸や富を分配できるか」が重要でした。そうでなければ付き従う必要もありません。当然ながら王は司祭としての性格が備わります。共同体の為に祭祀を行い、「強力な神の魂」を迎え入れ、人々にその力、恩恵を分け与えることができるのかに全てかかっていました。

重要な政策や政治判断は占いにより神意を伺い、病は呪術によって対処するといった「司祭」「シャーマン」としての力、また領土と民を守る為には強力な武装を必要とし、「戦士」としての資質も王には不可欠でした。

ヤマト王権はまさしくこの「」と「」において、他の勢力から一歩リードしていたのではないかと考えられます。

天上世界の太陽神の子孫である天皇が、日本の国土を開拓したオオクニヌシより国を譲り受け、神から授かった「稲」により、「稲作」を中心とした豊かな生活を築いていくという「神話」は日本の盟主としての正当性をこの上なく物語っています。天皇家はこの神話を「祭」によって再現し続けて、揺るぎないその正当性を継承してきました。

大陸との交易ルートを掌握していた?

「武」においては「鉄と馬」が大きく影響をもたらしました。

ヤマト政権は大陸との交易ルートを管理していたと言われています。

日本神話では神武東征において、神武天皇は日向から船団を率いて途中、海の道を良く知るこの槁根津日子(サヲネツヒコ)を水先案内人として従えます。

このことが象徴するかの如く、ヤマト政権は航海術と先進的な技術をもった九州の勢力を取り込むことによって、大陸との交易ルートを掌握したと考えられています。

3世紀後半にこのルートを通じて大陸より多くの「鉄器」がもたらされます。当時日本は鉄を加工することは出来ても、自国生産することができませんでした。鉄器は、武具はもちろんのこと農耕具ももたらされ、爆発的に普及し、やがてなくてはならないものになります。巨大な古墳もこの鉄器があってこそ作ることができました。

また、5世紀になると百済から「馬」がもたらされ、近畿地方において馬の生産が始まり、大きな軍事力の増強をもたらします。

さらに4〜5世紀にかけて東アジアの各地で起こった戦乱を逃れ、大陸の最先端技術を携えた「今来才伎(いまきのてひと)」を厚遇し、錦織部、韓鍛治部、陶作部といった「品部(しなべ)」編成して貪欲にその技術を吸収していったといいます。

6世紀には第二十六第継体天皇が百済から五経博士、易博士、暦博士、医博士を百済から招いて大陸の優れた文化を輸入しました。

ヤマト王権は、その優れた技術と独自の交易ルートにより、他の豪族には決して手に入れることのできない鏡や刀剣、装飾品を加工したり、遠くからやってきた渡来品を「威信財」として各地域の首長に分配して統治を行いました。

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威信財の例  出典:www.replan.ne.jpより

文化的に優位に立ったことでヤマト政権は日本各地に分立する地方豪族の盟主となりえたのでした。

マリノフスキーという文化人類学者の有名な学説「贈与論」にあるように、一方的な贈与には対等な関係は成立せず、服従関係を強いられることとなります。見たことのない優れたモノに対しては今も昔も人は心を奪われるものです。それに見合ったモノをもって返礼など到底できっこないとなれば、相手の優れた力に対して敬意をもって従うことは自然な流れなのではないでしょうか。

このようにヤマト王権は、精神世界・物質世界両方において人々に幸福と豊かな富をもたらす存在と成りえたのではないかと思います。

遥か遠くからやってくる存在が、優れた力によって幸や富をもたらしてくれるという日本人の「マレビト」に対する信仰はこのようにして育まれてきたのかもしれません。稲にしろ、優れた道具にしろ、縄文時代からそれは遥か遠くからもたらされるモノでした。それを取り込める人こそ「王」としてふさわしい者とされてきました。

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