マックス・ウェーバーの『プロテスタティズムの倫理と資本主義の精神』から考える日本と欧米の労働観の違いについて

日本と欧米との労働観の違い

今回も労働に関する記事です。前々回の日本人の労働観 日本人にとって「働く」ということは何なのか?では、「仕事に遊ぶ」という魯山人先生の言葉が示すように、日本人は本来、労働を娯楽的に捉えていたのではないかということを述べました。日本神話では神様御自ら、様々な労働をされ、神勅の一つとして、地上でも同じように水田稲作を行うように命じられました。

一方のユダヤ・キリスト教の聖典である旧約聖書には、楽園で果実を食べ、遊んで暮らしていたアダムとイブが〈善悪を知る木の実〉を食べてしまったがために、男に〈労働〉、女に〈産みの苦しみ〉という〈〉を与えたとありますことから、ここでは労働とは神の罰となります。

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マックス・ウェーバーの 
名著『プロ倫』について

マックス・ウェーバーという人の著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という有名な本があります。

この本は通称『プロ倫』といいまして宗教学はもちろん、政治学や経済学の分野にも大きな影響を及ぼす有名な論説です。マックス・ウェーバー(1864−1920)はドイツの学者で社会科学の方法論を確立したともいわれる人物です。

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マックス・ウェーバー 出典:wikipedia

今回はこの「プロ倫」から日本人と欧米人との労働感を比較してみたいと思います。

なぜプロテスタントは
経済的発展を手できたのか

そもそもですが、プロテスタンティズムとは何かご存知でしょうか。キリスト教にも多数の宗派といいますか分派が存在しますが、世界的に多数を占めるカトリックとは対極的なプロテスタントの信仰のあり方が下の表から読み取れると思います。

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ウェーバーは「プロ倫」の中でプロテスタント(特にカルヴァン派)がなぜ多く資本主義企業に適合できるのかを説きます。

統計的な比較において、カトリック信徒は手工業に留まる一方、プロテスタントの信徒は工場労働へと仕事を求めていく傾向があったといいます。

ウェーバーによれば、人間は本姓的に多くのお金を稼ぐことよりも、自分の慣れ親しんできた生活を持続させていくのに十分なお金を得ることを望んでいるといいます。

例えばサラリーマンで、日々家族や自分の趣味に時間を費やし、多少家計は厳しくともそれほど不満なく暮らしているに人に、毎日これから残業しろといってもそれは嫌ということです。

では何が、プロテスタントの人々を労働へと駆り立てたのかといいますと、それは「プロテスタンティズムがもたらす世俗内禁欲が資本主義のエートスを生み出した」ということのようです。エートスとは、性格・習性・慣習・人格といった内面から働く力であり、行動に駆り立てる力と解釈して下さい。

世俗内禁欲とはつまり欲を出さず、贅沢な生活を罪として慎ましく清貧なまでの生活を強いるということです。これは意外に思われるかもしれません。しかもウェーバーがいっているのは我慢といった消極的な禁欲ではなく、ただ休みなく職業生活に勤しみ、享楽を断って救済を求めるという積極的な禁欲でした。

救済といいましたが、プロテスタントの人々は〈予定説〉という論説によって激しい緊張に置かれていました。予定説というのは、神様は誰を救い、誰を救わないかをあらかじめ決めてしまっているという説です。

つまり、どんな悪人であろうが救われるのかもしれないし、どんなに良い行いをした人でも救われないのかもしれない。自分は救われるのかどうかという、どうしようもない不安を抱えて生きていました。これは世にいう〈認知的不協和〉という状況でして、放っておくと自己の存在意義さえ成り立たなくなります。よって人々がその状況から脱するために向かったのが労働なのでした。

ですから、「救われる人ならばこのような行動をとるはずである」という裏付けを取って安心に繋げようとしたのでした。人間は、神によって神の意志をこの地上世界に実現するために送られたのであって、労働は神の栄光を増すための最高の営みであると考えられてのことでした。

以上がマックス・ウェーバー『プロ倫』についてのまとめです。私が大学時代の宗教学の講義で知り、今になってやっと通読(注釈は読み飛ばし)しました。しかし、この本には実に様々なデータが提示され、煩雑ではっきり言って理解に苦しむ困難な本です。

ウェーバはなぜ、カトリック信徒に比べ、プロテスタントの信徒の方が経済的発展を手にすることができたのかは、このようなプロテスタントの倫理観が、資本主義の精神とマッチしたということが単純に言いたかったのではないと思います。

この問題に関して最近、単純にプロテスタントの識字率が高かったおかげではないかといわれています。カトリックでは神父が聖書を読んで信徒に説教をしますが、プロテスタントでは信徒自らが聖書を読み、個人が神と直接繋がることが重視されていたからです。

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個人と共同体の関係

西洋の人々はどのような状況に置かれたとしても、自分自身で運命を切り開く気概を持っているように思えます。あくまでも個人としてどうあるべきかが問題となります。

古代においては日本も西洋も宗教・政治・経済などと、分けて考えることはできない一元的な世界観を持っていました。これを聖俗未分離の状態といいますが、これは日本では未だ尚続いているということです。

平安時代に陰陽寮の陰陽師が占いや呪法によって天皇と国家を守護していたのに対して、メソポタミアやエジプトでは神話や占いで自分たちは間違っていないと、裏付けをとって証明し、自身の正当性を主張していました。

日本人はあくまでもマツリによって政治を行います。全体でマツリができるような、神様が宿ることができるような社会を目指して各々個人が頑張ります。

組織としての共同体の維持発展を重視する。こういったところに、日本の独自性が見出せるのではないでしょうか。

 

 


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