人間は限界を知ることによって自由になれる

神社のお正月

新年明けましておめでとうございます。ご存知かと思いますが、私は神社で神主をしています。ですので、年末年始の多忙により更新に間があいてしまいました。

今年もどうぞ宜しくお願いします。

さて、前回の記事にて、日本人のお正月とは本来、神社で初詣をするというよりも、家に〈年神様〉=〈祖先霊〉を迎える行事だったことを述べました。来訪するカミの力に触れることによって一年の無病息災や、更なる繁栄を実現しようとしていたのです。

お正月に初詣が行われるようになったのは江戸時代で、定着し始めたのは明治時代頃といわれています。今では、大きな神社では大晦日から多くの人々が押し寄せ、新年を迎えると同時にお参りをはじめ、お参りの後はお札やお守り、縁起物を受けたり、厄祓や家内安全などの祈願を受けたりと、夜通しで参拝者が賑わいをみせます。現在では多くの人が神社にお参りすることによって〈カミの力〉を自身や家族全体に迎え入れようとしています。

そんな訳で、私は年明けからはひたすら年頭祈願祭をご奉仕させていただいているわけです。1月1日〜3日は厄祓や家内安全などの個人祈願が多いのですが、4日からは仕事始めの企業・団体等の年頭祈願が多くなり、出張祭典も毎日あります。

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人が限界を知ることで
得られるもの

「虚学である神学を学ぶことによって、人間は自らの限界を知る。そして、その限界の外部に、目に見えないが、確実に存在する事柄があることに気づく。このような外部に存在する超越性のおかげで、人間は自らの狭い経験や知識の限界を突破し、自由になることができる。わたしは神学の勉強を通じて自由になることができた。」(『同志社大学神学部』著・佐藤優/光文社 p.4〜5より)

以前この本について記事を書きました。

ビブリオ『同志社大学神学部(著・佐藤優/光文社)

普通ならば限界を知ると自由は制限されるように考えがちですが、本を読み進める内に佐藤さんのおっしゃっていることが理解できました。これはプロテスタント神学に限らず、あらゆる信仰のある部分においてそうではないかと思います。

佐藤さんの場合、無神論を極めて無神論者になるためにプロテスタント神学を学び始めるものの、神学の世界に魅了されてやがて洗礼を受けられます。それから研究の道を志すのですが、辿り着いた神学論を貫き通すために「外交官になる」という道を選ばれました。

人間には限界がある。人間は神を信じることで救われる。では実際にどのように考えて行動すればいいのか。どのように生きるのかを知るために、佐藤氏は神学を勉強されたといいます。

神道にもある神学

一応、日本の神道にも「神道神学」なる神学が存在しますが、その内容の容量はキリスト教のそれと比べものになりません。本はペラッペラに薄いのが家に一冊ありますが、あまり開いたことがありません。たいしたことは書いてないだろうと、実に期待を持たせない本です。

大学の科目でも「神道神学」は必修ではありませんでしたので履修しませんでした。「神道には教えが無い」と言う人さえいますが、確かに、確固とした教義や教理をもって人々を教化するような宗教ではありません。

神道はよく「言挙げせず」といいます。神主は神様のことをわざわざ説明せず、ひたすら祈りをもって、世のため人のために祭祀にいそしんできました。

そんなわけで、お話が上手な神主さんはあまりいませんでした。歴史の教科書に過去の偉人としてお坊さん方は多く名を連ねますが、神主さんは一人もいません。表立って活躍するのではなく、陰ながら世の中の安寧のために神様をお祭りしてきたのです。神様のことを研究し、論じてきたのもお坊さんやお侍さん、江戸時代の国学者でした。



とある出張祭典にて

以前、ある運送会社さんの営業所のお祓いに行きました。なんとも悔やまれることですが、配達のトラックが事故によって人様の命を奪ってしまったということでした。なので、今後事故が起こらないように安全祈願をして欲しいとのことでした。

トラックが配達に出る前の早朝に、営業所内にてお祭りを行ったあと、80台ほどでしょうか。一台ずつ、激しい雨に打たれながらお祓いをしました。

その後、事務所でお茶をいただきながら責任者の方とお話をしました。

営業所の責任者の方は、自らトラックに乗って現場に行くわけではないので、営業所のドライバーが事故を起こさないように様々な対策をしていますが、あとはひたすら祈るしかないと仰っていました。

事務所にはちゃんと神棚がお祀りされていました。

責任者の方は、神棚の正しいお祀りの仕方を知りたいと、いくつか私に質問をされました。

責任者「お供え物のフタは空けたままが良いのでしょうか?」

私  「本来お供えする時に空けてお捧げして閉めるのですが、空けたままにしてお供えする方もいます。それぞれです。」

責任者「ずっとお供えしておいていいものでしょうか?」

私  「毎日お米、お酒、お塩、お水は新しくしてお供えしていれば結構ですが、本来はお供えしてしばらくしたら撤饌といってお下げすべきですね。」

責任者「神棚の扉は開けてお祀りしたほうがいいのでしょうか?」

私  「本来閉めてお祀りすべきですが、神様をこの目で拝みたいと扉を空け  たままお祀りする人もいます。扉のない神棚もあったりと、一概には言えませんね。」

責任者「そうなんですね。」

自分の力ではどうしようもできないことに直面して、人は神に救いを求めます。

信仰とは表現であって、完全に型にはめることはできません。

神様のお名前は心に思うのも恐れ多いとして神棚の扉を閉めておくのが本来ですが、ご先祖様の仏壇のお位牌は当然むき出しが多く、このことから神様をより近くに拝したいと考える人もいます。

お供えはずっと出しておくのは神様に失礼だと考える人もいれば、ずっとお供えしておいた方が、神様が喜ばれると考える人もいます。

私「一番大切なのはお祀りして拝む人のお気持ちですよ。」

最後にこう付け加えました。

キリスト教神学を学んで個人の救済を求め信仰する人。

神棚を祀って家族や会社の安寧を祈る人。

人間の限界を超えた先のことは「信仰」の実践という自由な表現によって乗り越えようとする考えにおいては、同じではないかと感じます。

 


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