日本史上最大の英雄 ヤマトタケル 後編

大和に凱旋するも
すぐさま東征へ

前回 西征の旅より戻り、朝廷に戻って天皇に報告したヤマトタケルでしたが、帰ってから間もなく、父景行天皇より次の命令を受けます。

東の方の十二国の荒ぶる神たちと、従わない人どもを言向け和平(ことむけやわ)してきなさい」とのことです。

一応、吉備臣(きびのおみ)の祖先である御鋤友耳建日子(みすきともみみたけひこ)がお供につき、邪気を払うというヒイラギで作った長い桙(ほこ)を授かります。

ヤマトタケルは伊勢神宮に参拝し、そこで奉仕する叔母のヤマトヒメに「父は私なんか死ねばいいと思っているのか、なんで西の悪い奴らを滅ぼして帰ってきて間もないのに、十分な軍勢も無く、東の十二国の悪い奴らを平定しろなんて。」とこぼして、しまいにはオイオイと泣き出してしまいます。

西征の際には「その人等を取れ(そのもの共を滅ぼせ)」との命令で、熊襲だけを討てば良かったのですが、その帰途で出雲建をも滅ぼしてしまったヤマトタケル。よっぽど父景行天皇に褒めて貰いたかったのだと思いますが、ヤマトタケルの猛々しすぎる力を更に恐れて、遠ざけようとします。

しかも今度は「言向け和平せ」とのことです。もう乱暴はやめてと思ったのかもしれませんが、説得が効く相手ばかりではないでしょう。ヤマトタケルにとってはかなり酷で、ナーバスになっていたことでしょう。

それでも、武勇と知略に優れたヤマトタケルがいきなり泣き出すのは意外に感じてしまいます。考え方として、ヤマトタケルの大遠征は一人で、しかも一代で成し遂げられたとは到底考えにくく、複数の英雄達の武勇伝を集約したモデルとして描き出されたのではないかとの説があります。

第10代崇神天皇の治世では「四道将軍(しどうしょうぐん)」という四人の将軍を遣わして北陸、東海、吉備、丹波を平定したという記述があります。日本書紀では四道将軍の一人である吉備津彦(キビツヒコ)が出雲の首長を誅殺したとあります。このあたりもヤマトタケルがイズモタケルを討ち取ったことと重なっているのかもしれません。

そういう訳ならこの多重人格のような性格も理解できないことはありませんが、これ以後のヤマトタケルは悲しみ、憎しみ、憂い、孤独といった感情を抱きながら生きて行くことになります。

ヤマトタケル 
草薙剣を授かる

話を戻しまして、叔母のヤマトヒメに泣きながら話を聞いてもらったヤマトタケルは、その叔母から草薙剣(くさなぎのつるぎ)を戴きます。この剣は三種に神器の一つで、かつて須佐男之命が八岐大蛇を退治した時に、尻尾から発見したものでした。さらに「もしピンチの時はこの袋の口を開きなさい」と、謎の袋を授かります。

伊勢を出て、尾張国(愛知県)に入ると山河の荒ぶる神、また従わない人等を言向け和平していきます。

相模国(神奈川県)に入ると、その国の国造(くにのみやつこ)が「この野の中に大きな沼があります。この沼に棲む神はひどく荒れすさんでいます。」と偽ってヤマトタケルを野原の中へ向かわせます。

それを見て、なんと国造はその野に火を放ちました。騙されたと知ったヤマトタケルは叔母から授かった謎の袋を開きます。火打ち石が入っていました。とりあえず草薙剣で草を薙ぎ払って(草薙の由来となる)安全地帯を作ると、火打ち石で迎え火を放って助かります。

戻ってその国造等を切り殺し、火をつけて焼きました。ゆえにその土地を焼津(やいづ)と呼ぶそうですが、焼津市は静岡県なので、古事記の「相模国」というのは間違いではないかといわれています。



それからさらに進んで走水の海(浦賀水道)を船で渡ろうとした時、渡の神が波を起こしたので船が思うように進みませんでした。そこで、いつの間にか結婚していたことがここで判明するヤマトタケル。

妻である弟橘比賣命(オトタチバナヒメノミコト)が「私があなたの代わりに海の中に入ります。どうかあなたは使命を成し遂げて無事にお帰りください」と言って入水します。生贄となったのでした。

日本書紀ではヤマトタケルが「こんな海峡なんかひとっ飛びで越えてやる」と言ったために渡の神を怒らせて海が荒れたといいます。本当に口は災いの元と言いますが、ここに「言挙げ」と「言向け」の違いがあるのだと思います。言挙げは古来タブーとされており、言葉を拳を振り上げるようにする、すなわち挑発や、攻撃的な言葉や論争は良くないのでしょう。

オトタチバナヒメには本当に気の毒ですが、海は静まり、無事に海峡を通過することができました。それより七日後、ヒメの櫛が海辺で見つかりお墓を作って治めたといいます。

それからヤマトタケルは東北にまでも出向いたのでしょうか、蝦夷(えみし)等を言向け、山河の荒ぶる神等を言向け和平していきます。



我が妻よ
癒えることのない傷

そこからの戻り、神奈川県の足柄山の麓に来た時、お昼ご飯を食べていると、その坂の神が鹿の姿をして現れました。そこで食べ残しのラッキョウの片端を持って打ち、その神の目に当てて打ち殺してしまいます。

その坂を登り、しみじみとため息を吐いて「わが妻よ」と言いました。

妻を亡くしたのがとてもショックだったようです。そこから甲斐国、科野国、を経て尾張の国にまで戻った時に、かつて婚約の契りを交わしていた美夜受比賣(ミヤズヒメ)の所へ行きますが、その時ヒメはちょうど月の障りが出てしまいます。それでも「かまうもんかと」関係を持ったようです。これによって血の穢れに触れたことが悲劇の引き金になったとの説もあります。

ヤマトタケルはその後、何故か草薙剣をミヤズヒメの元に置いて伊吹の山の神を滅ぼしに向かいます。そして「この山の神は素手で殺そう」と言ってその山を登りはじめると、牛のように大きな白い猪に出会います。

ここでヤマトタケルは言挙げして「この白い猪は神の使いだ。今殺さなくても帰りにでも殺せる。」と言い、山を登り続けますが、雹(ひょう)、大雨に遭い正気を失ってしまいます。実は白い猪は神の使いではなく、この山の神そのものだったのです。

ヤマトタケルは命からがら引き返し清水の湧く泉で休憩し、徐々に意識を回復しますが、当芸野(たぎの 岐阜県)の上に来た時に「心は空を翔けるように行きたいと思うのに、自分の足は中々進まず足元も覚束ない。」といった具合で、致命傷を負ってしまったことに代わりありませんでした。

ひどく疲れて杖を頼りに大和への帰途を歩みますが、三重まで進んだ時「私の足はクネクネと曲がった道のようにしてとても疲れた」となり、能煩野(のぼの 三重県鈴鹿郡)に至ってあの有名な歌を詠みます。

 

倭は 国のまほろば (ヤマトは最も優れた国)

たたなづく 青垣  (周囲を巡る青々とした垣のような)

山隠れる 倭しうるはし(山に囲まれたヤマトは実に美しい)

 

この歌はヤマトタケルの代表作に位置づけられる有名な歌です。

何故この歌が日本人の心に深く響くのか。

それは、山に囲まれた盆地に多くの日本人の故郷があるので情景が思い浮かんで重なり叙情的な響きを持って胸に迫るのだと思います。

懐かしい故郷に帰りたいという思いで、あともう少しというところまで戻って来ますが、ヤマトタケルは危篤に陥り、程無くしてこの世をさります

思いがけないことをきっかけにして、窮地に追い込まれ、急展開のクライマックスを迎えます。

何が原因でヤマトタケルがこのような最期をむかえることとなったのか。一番はやはり山の神に対して「言挙げ」をしてしまったことと思いますが、その前に月の障りのあるみやびずひめと関係をもったことで血の穢れを負ったからだとも考えられています。

二つものタブーを犯してしまっていたのです。なにはともあれ、孤独と悲しみを抱えた豪傑ヤマトタケルは日本の英雄像となりました。

この神話がモデルとなって、以後日本の歴史の中で繰り返されて行くことになります。

 


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