有力勢力がひしめく中 絶妙なバランスで一つにまとまった大和政権 〈古墳祭祀〉から〈神社祭祀〉へ

全国に有力勢力が
ひしめいていた

前回、古代出雲に一大勢力があり、ヤマト王権に大きな影響を及ぼしてきたことについて述べました。

この時代は出雲の他にも大きな勢力が存在していました。ヤマト王権の成立時期に全国各地で造られていた古墳ですが、古墳の規模で全長の大きさ上位30位のうち、近畿地方以外でランクインする巨大古墳は群馬県の前橋八幡山古墳太田天神山古墳、岡山県の造山古墳作山古墳しかありません。

city.ota.gunma.jp 太田天神山古墳

okayama-kanko.jp 造山古墳

この上毛野(群馬)と吉備(岡山)の古墳からは、当時畿内の古墳に用いられた石棺や埴輪の同一性から、ヤマト王権の有力な同盟者であったと考えられています。

上毛野(かみつけぬ)を支配していた上毛野氏の祖である荒田別(あらたわけ)・鹿我別(かがわけ)が神功皇后時代に海を渡って新羅を討ち、更に仁徳天皇の御代で上毛野竹葉瀬(かみつけののたかはせ)・田道(たじ)兄弟が同様に新羅を討ったと『日本書紀』は伝えています。この記述から、ヤマト王権の軍事を担う有力な氏族だったことが伺われます。

一方の吉備ですが、この地はヤマト王権を技術面で支えた先進地域でした。弥生時代後期(西暦200年頃)に造られた楯築墳丘墓の〈双方中円〉という形は後の、前方後円墳のベースになり、特殊器台・特殊壺が副葬品に見られ、ヤマトの円筒埴輪を並べる儀式の基となったとも考えられています。

つまりこの吉備から古墳時代の文化のスタイルが確立される要素が生まれたということです。吉備の支配者である吉備氏は、第7代孝霊天皇皇子の稚武彦命が祖ということになっており、稚武彦命の孫である吉備武彦はヤマトタケル東征の従者の一人でした。


古墳祭祀から神社祭祀へ

ヤマト王権の神祇祭祀は古墳祭祀でした。古墳の周りに並べた壺にお供え物を入れて捧げました。さらに、王、巫女、武人といった人物、また家、や武器といった様々な物、動物など様々な埴輪を配置されていました。


広瀬和雄氏の著書『前方後円墳国家』(角川選書)によれば、「前方後円墳は〈死した首長がカミとなって再生するための舞台装置〉であった。それは共同体の再生産が念じられた場であった。」ということです。首長、すなわち共同体のリーダーであった祖霊を祭る〈祖霊信仰〉であったということです。それがやがて神社祭祀に受け継がれていくことになります。

古代氏族の祖神を祀る神社は多くあります。それを知るための良著として、関裕二氏が著された『神社が語る古代12氏族の正体』という本があります。

ここで取り上げられている神社を以下に記します。

天皇家=伊勢神宮

出雲国造家=出雲大社

物部氏=石上神宮、磐船神社

蘇我氏=宗我坐宗我都比古神社

尾張氏=熱田神宮

大伴氏=伴林氏神社

三輪氏=大神神社

倭氏­=大和神社

中臣氏=枚岡神社

藤原氏­=春日大社

阿倍氏=敢国神社

秦氏­=伏見稲荷大社

天皇家をはじめ、古代の有力氏族はそれぞれの祖神を祀り、現在もそれが形として残っているのが神社です。

関氏は、古代日本史を独自のユニークな視点で執筆活動をされており、歴史の通説や定説とは異なる持論を展開されるのですが、この『神社が語る古代12氏族の正体』の中から特に気になる点をご紹介したいと思います。

前方後円墳とヤマト王権の成立

三世紀初頭、奈良盆地の東南の隅に、政治と宗教に特化した、前代未聞ともいえる形態の都市が造営された。これが纒向遺跡(奈良県桜井市)である。ここに、日本じゅうの地域から、人びとが集まってくると、彼らがそれぞれに持ち寄った埋葬文化が組みあわされることで、前方後円墳は生まれる。ヤマトの地で誕生した前方後円墳は、各地に伝播し、埋葬文化を共有する「ゆるやかな連合体」が生まれた。これがヤマト建国の実態である。強大な力をもった征服者が、ヤマトを打ち立てたのではなかった。おそらく、ヤマトの王は祭祀をつかさどっていたのだろう。こうして、武力や経済力を有する多くの首長(豪族)たちに支えられる体制が整ったわけである。(p.16〜17より引用)

全国各地の様々な文化の融合によってヤマトの地で生まれた文化が、再び全国に波及し、日本国土に一つの連合体という繋がりをもたらしたということですから、ヤマトとはまさに大和であり、大きな和。大きな和合の中心地だったと思われます。


古墳から神社へ

神道の成立期は天武天皇・持統天皇の時代であると考えられてきました。この頃(673〜697)に伊勢神宮の式年遷宮や、天皇即位の重要な儀式である大嘗祭(だいじょうさい)が定められたと考えられています。

ヤマト建国以来続いてきた前方後円墳造りが行われなくなったのは、その少し前の7世紀初頭でした。ヤマト王権にとってのシンボル的存在だったこの古墳が造られなくなったことが重要な意味があるといいます。

この前方後円墳の盛衰を共にした氏族が物部氏ということです。物部とは〈もののふ〉つまり武士の語源と同じで、「物々しい」だとか、強大な武力や力を表す言葉に通じることで解るように、軍事面を司る氏族でした。

またその一方で、ヤマト建国時に祭祀形態を作り上げる中心氏族でもありました。記事が長くなるので、詳しくは述べませんが、物部氏の神道行法は天皇家や摂関家の祭祀に受け継がれ、現在でも神職が禊行法、鎮魂行法を行う際は石上神宮に伝わる物部氏の行法をもとに行います。

物部氏の祖であるニギハヤヒは、神武天皇が大和に入られる際、天つ神の御子が天下ってきたと聞いて馳せ参じ、瞬く間に荒ぶる神々、従わない人々等を退け、神武天皇は畝火の橿原(うねびのかしはら)に宮を築いて天下を治めるにいたりました。

まさにヤマト王権成立の最大の功労者なのですが、このニギハヤヒは神武天皇が東征に向かう頃にはアマテラスの命により、すでに天上の世界より天磐船(アメノイワフネ)に乗って降臨していたと、日本書紀は伝えます。先に大和入りをしていたニギハヤヒは初代天皇に譲位した先代天皇であるとの考えもあります

関氏は、物部氏の本拠地であった大阪の八尾市から三世紀の吉備系土器が発掘されることから、物部氏は吉備の出身で、前方後円墳を造り始めたのではないかと推論しておられます。

仏教の受容を巡り聖徳太子や蘇我馬子と争って物部守屋一族が滅亡(587年)してから物部氏は衰退してしまいます。この頃から前方後円墳が造られなくなっていきます。

まとめ

出雲、吉備、北関東、そして畿内にも大きな勢力がひしめいていた中で、絶妙なバランスで一つにまとまった大和政権。良いモノを他所から積極的に取り入れ、より良い文化を築いていく日本文化の特色がこの時期によく出ていると感じます。

 

 

 

 


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