みんな気付かないうちに時間を泥棒に盗まれていませんか? ミヒャエル・エンデ著『モモ』から時間を奪われると人はどうなるのかを知る

伝統文化を守るのは
ただでさえ難しい

前回は、日本の伝統文化の破壊は何によってもたらされたのか?という記事でしたが、少々大げさな内容でした。しかし私は建築を学んでいた高校生の時から、日本の伝統文化は破壊され、汚い街と、中途半端で軽薄な文化だけが残ったと感じていました。

あの頃は洋楽を聴き、洋画を観て、欧米の文化に憧れを抱いていました。それと同時に〈自分は日本人である〉ことを自覚することになり、アイデンティティーを求め、日本の伝統文化を渇望するようになりました。日本的文化、そしてそれぞれの地域の伝統に基づいた文化を感じることが、日々の生活の中であまりにも少ないと思っていました。それにより、自分は一体何によって立って存在しているのだろうかと、空虚感に苛まれて生きてきました。
参考過去記事 日本は本当に美しい国なのか? 現在の日本文化とは何かを考えてみる

前回の記事で述べました通り、伝統を意図的に破壊しようという工作は実際にあります。陰謀論では無く、まさに陰謀そのものが行われていました。とはいえ、伝統はただでさえ守ることが難しいものです。神社を例えてみますと、昔は行われていたのに断絶した祭事は多くありますし、神宝や祭具にしても、伝統工芸を継承する後継者がいなくてやがて作れなくなるものもあります。神楽や雅楽にしても、失われた曲や舞はその数知れず。技や文化といった伝統を残していくこと自体がそもそも難しいのです。

皆様は3代、4代前の先祖の名前を全部知っていますか?言える人は珍しいのかもしれません。そもそも伝統を大事にすることやら、今は亡き者達の声に耳を傾けるという感覚が、現代社会において希薄になってきているように思います。

新しい文化は古い文化を土壌にして生み出されていくものです。よって新しい文化と古い文化が、全く関係ないのなら、文化の断絶が起こっているということになります。そうでないにしても、古い文化から見て新しい文化が不自然なものであれば、文化としてクオリティーの低い、残念な駄作的文化となります。そうならないよう、どうか美しい国であって欲しいという思いから、このブログのタイトルを〈美しい国ニッポン?〉と名付けました。
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人は時間を盗まれるとどうなるか?

かつてミヒャエル・エンデというドイツ人の児童文学作家がいました。

その彼が今から44年前に発表した『モモ』という作品があります。副題が、〈時間どろぼうと ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語〉となっています。この物語には、人間から時間を奪うことで、その個性や豊かさ、習慣や伝統が失われていくことが描かれています。

物語の舞台はおそらく現代。イタリアを思わせるようなある大都市のはずれに、古代に建てられた円形劇場がありました。いわば廃墟のようなところにモモという少女が一人で住んでいました。養護施設から逃げ出してきて、たった一人で暮らしている浮浪児なのですが、面倒見のよい近所の大人や子どもからなる多くの友人の手助けによって幸せに暮らしていました。

もっとも仲の良い友達は道路掃除夫のベッポという老人でした。彼は物事を慎重に時間をかけてじっくり進める人物で、かつ自分の仕事に誇りをもっていました。もう一人は観光ガイドのジジという若者でした。彼はその他に生活のために多くの仕事を掛け持ちしていました。口から生まれてきたかのようにおしゃべりで、デタラメやウソ、デマカセを並び立てて観光客から小銭を稼ぎます。この2人とモモの3人は親友で、貧しいながらも幸せに暮らしていました。

他にもモモのところへは多くの子供たちや、悩みをもつ大人達が話を聞いてもらいに来ていました。モモには人の話にじっと耳を傾けるだけで、人々に自信を取り戻させるような不思議な力がありました。

このような、ほのぼのとした平和な生活をおくる人々に、知らず知らずのうちに怪しい影が忍び寄ります。全身が灰色の紳士たちです。彼らは時間貯蓄銀行の行員で、人々が無駄に消費している時間を節約させ、それを時間銀行で預かり利子を支払うといいます。ですが実際には時間を増やせるわけではないので、彼らは単に人から時間を盗む〈時間泥棒〉なのでした。

人々は次々と時間を盗まれていきます。床屋のフージーさんは、お客さんとおしゃべりをしながらその腕を振るい、仕事に誇りを持っており、仕事が楽しいとも思っていました。しかし、ふとした瞬間に自分の人生を振り返り後悔をします。誰しも、自分の人生ほかの道もあったと思うことがありますね。そんな時に、フージーさんのもとへ時間泥棒がやってきます。いかに時間を無駄にしてきたかを説かれ、以来徹底的に時間を節約するフージー氏。1時間かけてやっていた仕事を、ブスっとした態度で一切お客さんと口をきかずに20分で済ませることにしました。こうなると仕事はまったく楽しいものではなくなりました。

こういう人が増えると社会全体に影響が出ます。1時間を20分ですから、稼ぎは単純に3倍になります。1人がそれを始め、2人、3人と増えると、同業者にとっては徐々に脅威となります。居酒屋を営むニノは1人ブドウ酒1杯で居座る常連のおじいさん達を、「おまえらのせいで金払いのいい客が寄り付かない」と、追い出してしまいます。やがてニノのお店は立ち食いのスピードレストランになります。時間泥棒に弱みを握られ時間を奪われた道路掃除夫のベッポは凄い勢いで、けたたましくほうきを振り回して働くようになり、観光ガイドのジジはテレビのトークショーなどで引っ張りだこの人気者になると、秒刻みのスケジュールに追われ、しだいに自分をイカサマ師だと蔑むようになります。

仕事がたのしいとか、仕事への愛情をもって働いているなどということは、問題ではなくなりました―むしろそんな考えは仕事のさまたげになります。だいじなことはただひとつ、できるだけ短時間に、できるだけたくさんの仕事をすることです。

(中略)

そしてついには、大都会そのものの外見まで変わってきました。旧市街の家々はとりこわされて、よぶんなものはいっさいついていない新しい家がたちました。家をつくるにも、そこに住む人がくらしいいようにするなどという手間はかけません。そうすると、それぞれちがう家をつくらなくてはならないからです。どの家もぜんぶおなじにつくってしまうほうが、ずっと安あがりですし、時間も節約できます。(P. 94より引用)

人間から文化的、伝統的なものを奪いとってしまうのに手っ取り早い方法が〈時間を奪い盗る〉ということではないかと思います。お金を得るだけの仕事に限らず、家事、育児、家族サービス等、日々の生活でやらなければならないことに忙殺されると人は大事なものを失います。

モモや、その友人のベッポやジジといった人たちに十分あったものが〈時間〉です。彼らは裕福ではないけれど、大好きな友人との時間を楽しんで幸せに暮していましたが、時間泥棒にしてみればそんな彼らは時間を無駄に消費しているに過ぎません。人間を、あくせくあくせく働かせ、お金をできる限り稼いでもらい、銀行に預金させようとしていたのでした。〈時は金なり〉という言葉がある通り、作者のエンデは時間を貨幣と同義に考え、ファンタジーとして表現したのがこの作品です。

モモはこの恐るべき時間泥棒たちから人々から奪われた時間を取り戻すわけですが、その挑戦は終始スリリングな展開をみせ、大人の読者も惹きつけられるでしょう。読み終わると心がなんだかほっこりとする不思議なお話です。

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