カネによって支配された世の中で いかにして自分を見失わずに生きていけるか 『資本論』の核心(著・佐藤 優)を読んで考えてみる

前回はミヒャエル・エンデの『モモ』という児童文学から、時間を奪われた人々と、その人たちが作り出す社会はどうなるかを考えてみました。

泥棒たちに時間を奪われた人々は当然時間に余裕がなく、日々の仕事をこなすのに忙殺されます。もう何が幸せなのか、楽しいとか、美味しいとか、美しいとかどうでもよくなり、心が貧しくなっていきます。すべては効率を優先し、建物はどこも同じデザインのものになります。つまり、個性が失われ、生活から文化的な要素が欠落していくのです。


 食べ物・着る物・建物がみんな一緒

ここ10年ほどの間に、我々の生活にも似たようなことが起こっています。アメリカ型の大量生産・大量消費の文化が、グローバリゼーションの波に乗って日本に押し寄せてきました。

食べ物でいえば、マクドナルドのようなファストフードは私が生まれる前から日本に存在します。子供の頃は親にマックに連れて行ってもらえるのが楽しみだったものです。

コカ・コーラなんかも子供の頃から大好きでした。

そしてやはり、20代に入った頃、地元にスター・バックスができた時は、「なんだかやっと自分の地元を認めてもらえた」感があり、とても嬉しかった思い出があります。

着る物といえば、最近は本当に多くの店舗を構え、世界進出するような大企業になったユニクロです。私が小学校高学年~中学生頃から着はじめました。自分で選んだ服を選ぶようになったちょうどその頃、ユニクロは自分のお小遣いで買える安価な商品を提供してくれるありがたい存在でした。しかし、高校生ぐらいからユニクロとは距離を置くようになります。世間でユニクロ製品は〈ダサい安物〉というイメージがあり、着ているのを知られるのが恥ずかしいと〈ユニクロ〉のタグを切り取り捨てらるといった扱いを受けていたのがちょうどその頃かと思います。今はデザイン、品質ともに向上し大きくイメージアップしたように思います。

ユニクロの偽物まで作られたことがあるといいますから、本当にたいしたものです。今や私は再び上から下まで、そして中(インナー)までユニクロのお世話になっており、依存度はますます深まるばかりです。

そして私が20代半ばを迎えた頃、近所に全国屈指の規模を誇る大型ショッピングモールが建ちました。

今も連日多くの人が押し寄せます。それから、こういった同じような商業施設が県内に次々と作られていきました。そんなに買い物をするところを増やしてどうするのだろうと思いつつ、最寄りの駅周辺が急速に寂れてゆくのを感じていました。

この世には、色んな食べ物があり、着る物があり、それを売るお店がある訳です。しかし、こういったグローバル化の波に乗った製品・施設によってかなりが淘汰されてきています。大量に同じものを作る製品の方が、個々に作る製品よりはるかに価格が安く抑えられますから無理もありません。このように、文化や個性といった特色は失われる傾向があります。

知らない間にやってきていた
新自由主義

新自由主義という思想が、本格的に政治に取り入れられ始めたのが小泉政権時(2001~2006)だったようです。新自由主義(ネオリベラリズム Neo-liberalism)というからには、新しい思想なのかというとそうではなく、『資本論』の核心/著・佐藤 優/角川新書によれば、むしろ19世紀半ば頃にイギリスで出現した〈純粋な資本主義の反復〉(本書p.19)といいます。

「保守主義、ロマン主義、マルクス主義、金日成主義などの主義がつく思想は、知的操作によって人間の表象能力を刺激して、何らかの思想を構築する。これに対して、自由主義は基本的に知的操作を必要としない。自由主義は主体が何らかの行為を行う際に障害となる要素を除去する作業しか必要としない。新自由主義もその方法を継承している。」(p.20より)

 

小泉政権は〈聖域なき構造改革〉を経済政策をスローガンに掲げ、郵政事業の民営化や、道路関係四公団の民営化を行った訳ですが、他にも様々な分野で規制緩和を行って、新規事業参入者等をに市場に受け入れ、活性化させようとしました。

日本にはかつて、〈大規模小売店舗法〉という法律によって現在の大型ショッピングモールのような商業施設は作ることが出来ませんでしたが、小泉政権に移る前の2000年6月、アメリカ合衆国連邦政府の圧力によって撤廃されました。よって、外国の資本がドンドン日本へ流れ込んできたという訳です。

さらに、ニューエコノミーへの転換によって労働構造に変化がもたらされました。多数の熟練者を求める社会から、少数の創造的な社員と、多数の単純作業を求める社会へと変化した結果、多数の非正社員を生みます。

日本従来の経営の在り方とは、会社と社員が長期に渡って信用し合う関係性がベースにありました。終身雇用は崩壊し、アメリカのように、生産量の増減で代替可能な人材を雇ったり、余ればクビにすればよいという考え方になります。

正社員の割合は2001年から2006年の6年間に72%から67%にまで低下し、約230万人減少し、2002-2006年の5年間で、非正社員は320万人増加し、正社員は93万人減少しています。(データ参考 ウィキペディア

かつては製造業の労働に対しては派遣社員の雇用が認められていませんでしたが、規制緩和で可能となり、多くの労働者が流れましたが、派遣切りによって路頭に迷う若者が大勢発生し社会問題になりました。私はそれを他人事のように思っていましたが、今から9年ほど前、派遣社員として働いていた工場を突然契約更新しないと通告され、派遣切りの憂き目にあったことがあります。

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資本主義の本質について

今回は、『資本論』の核心という本を取り上げているのですが、『資本論』とはカール・マルクスが1867年に著して後、共産主義という思想へと発展を遂げていくのですが、一方では、「資本主義の内在的論理を解明しよう」とする論説です。

この『資本論』研究の第一人者であった宇野弘蔵(1897~1977)氏の『経済学』(1956年 角川全書)という研究書を題材に書かれたのが本書です。(ややこしい|д゚))ですが、経済学に関して素人の私は、下手に原典を遡らずに佐藤氏の意見のみを参考に紹介していこうと思います。

さて、本書の副題には「純粋な資本主義を考える」とありますが、これはどういうことかをつらつらと申しあげます。

まず、企業がいくら業績を上げても、労働者の賃金上昇には直接つながらないということです。なぜなら、資本主義において労働力自体が商品ですから、労働者を雇用する資本家にとっては全く関係ないからです。

なので、労働者が頑張れば頑張るほど、資本家に剰余価値を与えることになります。資本主義という世界において雇用とは、労働力という商品を、労働者が資本家と自由で平等な立場のもとで交換する関係なのです。嫌ならそこで働かなければいいことですが、多くの人が雇用関係によって賃金を得ています。よって労働者とは搾取されている階級であるといえます。

こんな現実に直面して革命を志す人は少ないとは思いますが、自営業という道を選ぶ人もいらっしゃるかと思います。成功する人もいれば失敗する人もいるでしょう。

では、現状を見てみましょう。政府の統計によれば年収200万円以下の給与所得者が1000万人を超えているようです。このような状況では子供を産み、育てていくのも困難です。純粋な資本主義に立ち返った新自由主義という経済システムでは、絶対的貧困を生み出すことを避けられません。自由競争の名のもと、強者のみが生き残り弱者は淘汰され必ず大きな格差を生み出します。少子化に歯止めが利かないのも無理はありません。

佐藤氏はキリスト教徒の立場から、このような資本主義は外部からのきっかけにより、いづれは崩れるので「急ぎつつ、待つ」しかないと考えていらっしゃるようです。

資本主義の構造が外部からのきっかけによって、全面的に改変されなくてはならない。この外部のことを、キリスト教は、イエス・キリストという名で示すのである。(p.190)

キリスト教には終末思想が根底にあります。世界の終末には、キリストの再臨があり、再来したキリストは、〈千年王国〉を築いて1000年に渡り地上に至福の世界がもたらされるという信仰が存在します。神を待ち望み、キリストを信じる者のみ生き残り、すべての悪が世界から取り除かれるといいます。

神道では「天壌無窮の神勅」(てんじょうむきゅうのしんちょく)つまり、この日本の国は永久にどこまでも繁栄を続けて行く思想があります。ですので私は、共存共栄を目指す日本型経済社会に再生する方向を考えて、戦っていこうと思います。現政権の政治哲学は、新自由主義と保守主義との二つからなるそうです。純粋な資本主義に立ち返った新自由主義と日本の伝統文化に基づいた社会の在り方は両立できるのかが、至上命題となるのではないでしょうか。

 


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