神功皇后の三韓征伐 日本国土の西半分を統一した勢いで朝鮮半島へ進出

▲画像 出雲國大原神主神楽の三韓征伐を描いた場面 ・www.unnan-kankou.jpより

今月はアメリカの歴史やら、日本の現状についての記事の更新が続きました。ここで再び、日本の歴史を振り返り検証し、「我々はどこから、どのようにしてやって来たか。そして、どこへ向かうのか」を考えていきたいと思います。

さて、当ブログでは、有力勢力がひしめく中 絶妙なバランスで一つにまとまった大和政権 〈古墳祭祀〉から〈神社祭祀〉へという先月の〈歴史〉カテゴリー記事で、古墳時代まで進んでいます。(随分長く古墳時代に停滞しております(ー ー;))一方で、〈神道〉のサブカテゴリ―〈日本神話〉において日本史上最大の英雄 ヤマトタケルという記事にて、ヤマトタケルが東征の道半ばで力尽きるお話しまで述べました。

日本の神話はあるところまで行くと歴史になり、日本の歴史を遡ればいつの間にか神話になってしまいます。ちょうど、この古墳時代ぐらいは神話と歴史が混ざり合う時期です。ヤマトタケルに象徴されるような強力な軍事力をもったヤマト王権は、日本に一大勢力を築きます。

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西日本を統一 
その勢い朝鮮半島へ

4世紀の中頃には国土のほぼ西半分を統一していたと見られるヤマト王権は、勢いそのまま朝鮮半島へ進出して行きました。この頃中国の勢力が弱まって朝鮮半島北部の高句麗(こうくり)の勢力が強くなり、中部の百済(くだら)、南部の新羅(しらぎ)が周辺諸国を併合し、朝鮮半島においてこの三国が鼎立(ていりつ)することになります。

そんな中、弁韓(べんかん)だけ小国分立の状態にあり、日本はその中の伽耶諸国に勢力圏を築き、そこを足がかりに朝鮮南部から採れる鉄資源と農耕具や土木技術を手に入れます。これによって応神天皇陵(15代)や仁徳天皇陵(16代)のような超巨大な墳墓を築くことが出来たと考えられています。

仁徳天皇陵古墳 ・www.osaka-info.jpより

日本神話において朝鮮半島に関する所見は、日本書紀の巻第一〈神代上〉にて、以下のように登場します。

「ある文にいわく。須佐之男命の所行無状(しわざあづきな)し。故、もろもろの神たち、おほするに、千座置戸をもつてし、つひに逐ふ。須佐之男命、その子五十猛神を率いて新羅の国にあまくだりまして曽尸茂梨(そしもり)のところに居します。すなはち興言(ことあげ)して曰はく。この国ほ吾居らまく欲せじと曰ひて、つひに埴をもつ て船につくりて、乗りて東の方に渡りて、出雲の国の簸の川上にある鳥上の峯に到る」

日本書紀は「一書曰く・・・。(あるふみいわく)」と、いくつもの説が列挙され紹介されています。狼藉により高天原を追放された須佐之男命が息子である五十猛神(イソタケル)という神と共に朝鮮半島は新羅の曾尸茂梨(そしもり)という場所に降り立ちますが、「この地には居たくない」と、粘土の船を造って海を渡り、出雲の国の鳥上へ到ったという話です。

日本の縄文土器や、日本式古墳が朝鮮半島で発見されていますから、日本と朝鮮半島は古くから関係が深かったといいますか、一時期においては同一文化圏を共有していたといえます。

4世紀中頃、日本は百済と国交を結び、西暦369年にはその要請に応じ朝鮮に出兵し新羅を攻め、百済も従属させて弁韓の地を平定したといいます。その後も百済・新羅を攻め破り、高句麗とも戦い、一時北部に攻め上る勢いを見せました。このことは好太王碑文によって知ることが出来ます。好太王碑文は1870年(明治3年)に発見されたものですが、『日本書紀』には神功皇后が朝鮮に出兵して新羅を平定し、百済を直轄地にしたことが記されており、古くから知られていた歴史なのです。

好太王碑文の墨水廓填本 1882年頃作成、東京国立博物館蔵upload.wikimedia.orgより

繰り返す歴史
深刻な領土問題

日本は近代においても明治43年(1910年)から昭和20年(1945年)の間朝鮮併合によって朝鮮を一時統治していた時期がありましたが、こういった時代は繰り返しおこります。豊臣秀吉の文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)もそうですが、日本は国策によってしばしば朝鮮に進出してきました。当然、戦争で遠征するとなると、莫大な労力を使います。大軍を組織するには多くの食料をはじめとする物資、お金がかかります。兵士は非生産的な存在で、国はそれを養っていくだけの蓄えが必要となります。なので、よっぽどの理由がない限りこちらから戦争はできません。

周りを全て海に囲まれた国である日本を防衛するのは非常に困難です。日本が朝鮮に進出する場合は、大陸勢力の脅威から、緩衝地としての朝鮮をコントロールしたいという〈防衛意識〉から来る場合が多いと思いますが、その度に自国が戦場とされる朝鮮は不憫にも思えます。日本は長い歴史の間の中で、幾度も朝鮮を攻めてきました。これは日本にとっては地政学的に仕方の無いことなのかもしれませんが、この揺るぎない事実があることで、反日感情が生まれるのも無理も無いと思います。

現在も竹島領有権をめぐる領土問題や、従軍慰安婦をめぐる歴史認識問題。双方の主張は食い違い、北朝鮮のミサイル問題と、日本と朝鮮半島は現在緊張関係にあります。互いに憎しみ嫌い合う方向に強く引っ張られているように思えます。表立って見え無いところで、現在も東アジアにおいて、まさに戦争と呼べるような策略が巡らされているようです。このような国際関係の問題は古代からずっと続いてきたことが『日本書紀』のような神話からも分かるというのですから、その根は深いといえるでしょう。


神功皇后の三韓征伐

神功皇后は、あのヤマトタケルの子である仲哀天皇のお后でした。その仲哀天皇は九州の熊襲(くまそ)を征伐に遠征し、現在福岡市東区の香椎宮に大本営を構えていました。

九州北部の神社には、神功皇后にまつわる多くの伝説があります。私の生まれ育った地も例外ではありません。周りを山に囲まれた盆地に生まれ育った私は、幼い頃から近所の田んぼをよく散歩していたのですが、山に囲まれ、平野に広がる川を挟んだ田んぼの風景が非常に好きで「ここは海にぴったりな風景だ。この平野の部分が海だったらいいのに」とずっと思っていましたが、神主になってから神功皇后と地元のことを調べていくと、かつてその時代において層増岐野(そそきの)と呼ばれた頃、実際にそこが中海だったことが判明しました。

ここがその場所 小・中学生時代の通学路から撮影

思いがけない喜びと感動を得ました。どうりで内陸なのに近くに「津古」(つこ)という地名があったり「干潟」(ひかた)と呼ばれる土地が存在する訳だと思いました。その辺りから神功皇后は船に乗って賊を討ちに行ったそうです。本当に4世紀頃にその付近の平野が中海だったのかは分かりませんが、時間を超越した土地の伝承が神話に込められているのだなと、その時感じたものです。

さて、なぜ女性である神功皇后が朝鮮半島に出征せねばならなかったのかといいますと、夫である仲哀天皇が「新羅の国を討伐せよ」という神託を信ぜず、それに背き、神の祟りによって命を落としたのだといいます。いくら天皇でも神の命令に背くと命を落としてしまうのです。その神託を下した神様は天照大御神の荒御魂、事代主神、住吉三神であると思われます。さらに神功皇后は神意を伺い、神功皇后が身籠っている応神天皇が日本を統べると予言を受け、新羅を討伐するよう命ぜられます。

神功皇后は身重ながらも、腰に石をあてて(出産を抑えるため)朝鮮半島に出征します。するとおびただしい数の魚が集まり、船を押すように泳ぎ、あっと言う間に新羅に到着します。それを見た新羅の王は畏れおののいて、戦わずして即刻服従を誓ったといいます。更に隣国の百済も従わせ、新羅を馬飼の国に、百済を屯倉(直轄領)に定めます。

絹本著色高良大社縁起 下部に朝鮮半島に攻め入る場面が描かかれている www.kourataisya.or.jpより

いつ出産となってもおかしくない状態の神功皇后は、朝鮮半島からの帰路の途中でとうとう産気づき、筑紫の国の〈宇美(うみ)〉というところでホムダワケ、後の応神天皇をお産みになります。さらに大和に向かう際、応神天皇の異母兄にあたる香坂皇子、忍熊皇子が皇位を狙って畿内にて反乱を起こし、神功皇后軍は奇襲に遭います。ですが、武内宿禰や武振熊命の働きよって、その奇襲を退け戦に勝利し、無事に応神天皇が即位することとなります。

これがいわゆる三韓征伐の神話ですが、このお話について考える時、やはり日本と朝鮮半島の国際関係の歴史の深さが感じさせられます。

繰り返す歴史を、アナロジカルな感覚で捉えること。そこに神話を読む意義があるのではないかと思います。


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