緩やかな連合体から統一国家へ 血塗られた王 雄略天皇

▲ 芝山はには祭りの様子 ・fuuta-gonta.comより

政・教・財・武を得た王家

3世紀末〜4世紀中頃までに大和に形成された王権は、各地の有力氏族を従え、緩やかな連合体のような形で国を治めていたと考えられています。

その〈王家〉は神話に基づく〈祭祀〉によって、強力な神の力を迎え入れることで、付き従う家臣や民にその宗教的な恩恵をもたらし、さらに交易ルートを築いて〈財〉を手に入れ、物的にも国を豊かにしていきました。大陸から鉄器の技術を取り入れて〈武力〉をも手に入れたことでしょう。

ドラクエで例えるなら、リーダーである〈勇者〉は司祭である〈僧侶〉と、物資を調達する〈商人〉、武力のある〈戦士〉を味方につけた形になります。最強パーティーが結成されたということですね。

ドラクエⅣのコスプレーヤー ・www.geocities.jp

この時代にあって、剣や鏡といった宝物のような〈威信財〉また、鉄資源といった物資、様々な技術や文化、またそれを伝える人材を獲得するために、日本は朝鮮半島南部に進出していました。

noues.net 刀剣、馬具、装飾品といった威信財の例として

日本は百済との交渉を持ち、その要請により新羅をに攻め入るなど、百済と結んで朝鮮半島南部に勢力を張ろうとしました。そこで宿敵となったのが半島北部の高句麗でした。この高句麗に対抗するため、中国王朝に朝貢して後ろ盾を得ることで、半島での勢力の維持拡大を図ったのです。

ところが、高句麗に並ぶ〈開府儀同三司(かいふぎどうさんし)〉という高官職を宋に求めていたにも関わらず、与えられたのはそれより一段低いものでした。宋に朝貢しても高句麗の牽制には繋がらないと見切りをつけ、第21代雄略天皇は冊封体制から離脱します。

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血塗られた王
雄略天皇

動乱の5世紀の日本を治めていたのは『宋書』によれば〈讃〉〈珍〉〈済〉〈興〉〈武〉といういわゆる〈倭の五王〉だったとされていますが、日本にとって正史である『日本書紀』との記述と合致しません。しかし、この五王のうち比定がほぼ間違いないであろうとされているのが〈武〉=〈雄略天皇〉なのです。名前が〈武〉ですから、武勇に優れた王であることが容易に想像つきますが、雄略天皇とはどのような君主だったのでしょうか。

雄略天皇が即位するきっかけとなったのは、先代の安康天皇が義理の息子であった幼年の眉輪王(まよわのおう)に暗殺されることに始まります。この衝撃的な事件に際し雄略天皇は迅速に行動を起こします。まず兄である八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)が事件になんらかの関与があったと疑って殺害。次にもう一人の兄である坂合黒彦皇子(さかあいくろひこのみこ)が眉輪王とともに葛城円大臣(かずらきのつぶらおおきみ)の屋敷に逃げ込むと、ただちに包囲。嘆願の声にも耳を貸さずに屋敷に火をかけ、三人もろとも焼き殺してしまいました。

さらに有力な王位継承者であった従兄弟にあたる市辺押磐皇子(いちのべのおしわのみこ)を狩りに誘ってだまし討ちにし、その弟である御馬皇子(みまのみこ)をも始末し、三ヶ月後にようやく天皇として即位します。

なんだかヤマトタケルを彷彿とさせる凶暴性ですが、これほどまでに自らの手を血で濡らした天皇は他にはみられません。しかも兄弟、従兄弟と身内のほぼ全てを手にかけてしまったがために、後に皇統の存続が危ぶまれる危機を招いてしまいました。ちょっとやりすぎですね。

兄である坂合黒彦皇子、甥にあたる眉輪王とともに焼け死んだ葛城円大臣ですが、当時のヤマト王権に匹敵する勢力、畿内最大級の勢力を誇っていたのが葛城氏でした。これを機に葛城氏の勢力は弱体化していきます。

『日本書紀』には雄略天皇が葛城山に登った際に、一言主神に出会いともに狩りを楽しんだという話があります。天皇と全く同じ行列を組んで現れたとう一言主神は葛城氏の氏神でした。つまり、葛城氏は天皇家と同じ軍事力を誇っていたということだと考えられます。一言主神は天皇の贈り物を受け、喜び見送ったという話から、葛城氏を服従させたという意味が読み取れます。

葛城山で狩りをする雄略天皇 ・upload.wikimedia.org

さらに、古代の先進地域である吉備の吉備氏も反乱を企てたとされ鎮圧されます。この頃を境に古墳が造られなくなったといいます。さらに関東の上毛野や、九州の日向も同様に、繁栄していた地域での古墳造営が止まってしまい、大型古墳は王家だけのものが造られるようになります。

緩やかな豪族連合体から
大王専制の中央集権国へ

雄略天皇が目指していたものは、緩やかな豪族連合体という形から、ヤマト王権を大王専制の中央集権国家へと改革することでした。そうすることで日本の大陸での勢力維持拡大を図ったのではないかと思います。中国の冊封体制から離脱した後は特に、日本の国の勢力を一つにまとめる必要があったのではないでしょうか。

そんな雄略天皇の支配力を物語る遺物が二箇所から発見されています。1978年に埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土された鉄剣に記された「獲加多支鹵(わかたける)」という王の名は、遡ること1873年に熊本県江田船山古墳で発見された鉄刀に刻まれている王の名と一致しました。この獲加多支鹵という名の王は雄略天皇であると考えられています。ということは、畿内を中心としながら関東から九州にかける広い範囲で支配力を誇ったことを物語っているのです。

upload.wikimedia.org 稲荷山古墳出土鉄剣_(表面)

「獲加多支鹵」とは多くの物を奪い取るとも読めますし、〈雄略〉とは武略、知略に優れたということが伺えます。〈武〉とはそのまま武勇に優れた王ということで、その名前から人々にどう思われていたのかが分かるのです。

しかし、雄略天皇は歌人でもあります。万葉集の第一首目の歌は雄略天皇の御製と伝えられています。以下にその歌を記します。

籠(こ)もよ み籠持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串持ち この岳(をか)に菜(な)摘(つ)ます兒(こ) 家聞かな 告(の)らさね そらみつ大和の国は おしなべてわれこそ居(を)れ しきなべてわれこそ座(ま)せ われにこそは告らめ 家をも名をも

意味は「いいカゴを持って、良い串を持って、この丘で菜(な)を摘むそこの女の子。君の家はどこかな、教えてくれよ。私は大和の国を治めている。だから私には教えてくれるだろう、君の家も君の名前も。」といった感じです。つまり菜の花を摘んでいる女の子をナンパしている歌です。

いろんな歌が4500首以上収録されている我が国最古の歌集の第一首目がこれです。ここから日本の国振りが伺えるといえるのでしょうか?ナンパの歌から始まるなんて、どうりで日本は平和なわけです。「この国は私が支配しているんだから、お前は俺のものなんだ」ということなのでしょう。

日本最古の歌を詠まれたのは須佐之男命という神様で、この神様は高天原で大暴れして追放され、その後八岐大蛇を退治したりと、雄略天皇と同じく凶暴な力を持った神様でした。その須佐之男命が詠まれた歌は「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに 八重垣作るその八重垣を」という歌で、意味は「湧き出でる雲は妻を籠らせるために八重垣をつくる」という、これも女性に関する歌なのでした。

現代でも映画やドラマにあるように、ラブロマンスとバイオレンスの組み合わせは、古代から定番の、物語の鉄板なのでしょう。



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