仏教の伝来 日本古代史の最重要人物にして最大の謎 聖徳太子 

▲画像 「唐本御影」聖徳太子が描かれた肖像画。(この肖像画は8世紀半ばに別人を描いた物であるとする説もある。)upload.wikimedia.org

日本人にとっての聖徳太子像

聖徳太子について皆様はどのようなイメージをお持ちでしょうか。私が物心ついた頃には一万円札は福沢諭吉でしたが、生まれた頃の一万円札は聖徳太子だったようで、まさに日本の顔だった人物です。

では実際には何を行った人なのか。太子の誕生を境に、長い古墳時代が終わり、歴史を整理する区分としては飛鳥時代に入ります。

太子は第33代推古天皇の摂政となり、日本で初めての憲法である17条憲法と、冠位12階を定め、周辺諸国に引け劣らない国家づくりを推進しました。また、小野妹子をはじめとする遣隋使を派遣。現在世界最古の木造建築である法隆寺を建立し、仏教を日本に根付かせる礎を作ったとされる人物です。

と、太子の功績のザックリした内容ですが、一般の人たちの聖徳太子に対する歴史認識でいけば、このようなものではないかと思います。

幼い頃より
超人的能力を発揮

しかし、聖徳太子は優れた政治家であると同時に、多くの超人的伝説を残し、死後に聖人として崇められ、やがて信仰をも生み出していきます。母である穴穂部間人皇女が馬小屋の戸に当たって産気づきその場で太子を産み、2歳の時には合掌して南無仏を唱えたといいます。

14歳の時には蘇我馬子の軍勢に加わり初陣を飾りますが、物部守屋軍に対して劣勢を強いられるなか、太子は四天王像を掘り四天王寺建立の誓いを立てたことで全軍を奮起させ、勝利に導いたといいます。

四天王寺

推古天王の摂政となった時には、何人もの臣下の話を同時に聞くことができ、高句麗から渡来して太子の仏教の師匠となった僧恵慈(えじ)は、碑文に太子のことを〈我が法王大王〉と称え、ただならぬ崇敬を寄せます。恵慈は太子の死を知ると大いに悲しみ、同じ日(2月22日)に死ぬことを願い、事実翌年の同じ日に亡くなったといいます。

このように数限り無い伝説に彩られて、現在の日本人の聖徳太子像を作り上げてきたといえます。伝説ばかりか、その事績までもが〈聖徳太子〉という一人の理想像に集約され、創出された人物である。すなわち〈非実在説〉も存在します。

今回より、この日本という国にあって極めて影響力を持った重要人物である聖徳太子についてスポットを当て、飛鳥時代を検証していきたいと思います。

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聖徳太子が登場した
背景と時代の流れ

ヤマト王権の基礎を磐石とした日本史上初の専制君主である、〈血塗られた王〉とも称される第21代雄略天皇は、有力豪族ばかりか、自身の兄弟、従兄弟と身内のほぼ全てを手にかけてしまったがために、後に皇統の存続が危ぶまれる危機を招いてしまいました。

第15代の武烈天皇が崩御(507年)すると、越前より第15代応神天皇の5世の子孫という、遠縁の第26代継体天皇を迎えることとなります。この継体天皇は即位後19年にしてやっと都を定めて大和入りしますが、程なく九州北部で新羅と手を結んだ筑紫磐井(ちくしのいわい)が反乱を起こし(528年磐井の乱)国内は混乱します。この状況からヤマト王権内部や地域国家の間で王位を巡る争いがあったことが推測されます。

継体天皇を越前から迎えた人物である大伴金村(おおとものかなむら)は、葛城氏や平群氏を斥けて当時朝廷で権勢を振るっていました。しかし、金村は朝鮮半島における外交政策の失敗により日本は半島の利権を全て失います。(527年)大伴金村は失脚し、変わって蘇我氏と物部氏が台頭するようになります。

大伴金村 『前賢故実』より

仏教伝来

『元興寺伽藍縁起』によれば西暦538年、『日本書紀』によれば552年に日本に仏教が伝わったといいます。百済の聖明王から朝廷に仏像が送られ、第29代欽明天皇はその荘厳さに深く感嘆したそうです。それまで日本で信仰されてきた神は、祭りの際に磐座や神籬といった〈依り代〉にその御霊を宿し、当然ながら姿や形を表しません。ビジュアルをもってしてその超越的な力を顕現した仏像の姿に、当時の人は相当な衝撃を受けたことでしょう。

法隆寺金堂釈迦三尊像  upload.wikimedia.org

しかし、天皇は仏教が如何に素晴らしいとはいえ、その受け入れについて独断では決めきれず、群臣たちに意見を求めます。後に聖徳太子が定めた17条憲法の最後の条文には「それ事は独り断(さだ)むべからず。必ず衆(もろもろ)とともによろしく論(あげつら)うべし。」とありますように、日本の政治はコンセンサスを大事にする伝統があります。

天皇の問いに対し、大臣の蘇我稲目は、他の国々が信仰しているのだから、我が国だけそれをしないという訳にはいかないと、仏教の受容を進言しました。一方で大連(おおむらじ)の物部尾輿や中臣氏は、我が国は神を信仰する国であり、異国の仏を信仰しては神の怒りを買うと主張して仏教の受容を反対し、意見は対立します。

崇仏・廃仏と
二つに分かれた国内

結局話し合いではどうにもならず、欽明天皇は百済から送られてきた仏像を蘇我稲目に崇拝させて様子をみることにしました。すると、しばらくして国内で疫病が流行します。物部尾輿らは、それ見たことかと欽明天皇に訴え出て、その寺を焼き払い、仏像を投棄します。この一件で一旦は仏教の受容は頓挫しますが、その後も争いは続きます。

欽明天皇が崩御(571年)し、第30代敏達天皇が即位。それから13年後(584年)、蘇我稲目の子である蘇我馬子が私邸に仏殿を建て、司馬達等の娘など3人の女性を出家させます。すると再び国内に疫病が蔓延したので、物部尾輿の子、物部守屋が仏教受容に否定的であった敏達天皇の許可を得て、馬子の仏殿を焼き払い、仏像を投棄しました。

物部守屋(菊池容斎筆)

二度に渡って弾圧を受けた蘇我氏の遺恨は深かったことでしょう、やがて蘇我氏と物部氏は仏教受容をめぐる争いは最終決戦を迎えます。聖徳太子の父である第31代用明天皇は蘇我稲目の娘を母とし、崇仏派でもあった天皇ですが、即位後2年で病状に伏し、次期の王位をめぐる争いが崇仏派と廃仏派の全面衝突へと発展した形となります。丁未の乱(ていびのらん)(587年)です。

前述の通り聖徳太子も軍勢に加わった蘇我馬子軍が物部守軍を破り(この戦いで物部守屋は射殺されます)仏教受容をめぐる国内の争いに終止符が打たれます。



絶大な権力を手にした
蘇我馬子

ですが実際のところは物部氏の本拠地からも寺院の遺構が発掘されたり、両家は婚姻関係を結んでいたりしています。よって、物部氏は廃仏派を装うといいますか、政治的パフォーマンスとして廃仏派を掲げ、蘇我氏を牽制していたのではないかと推測されています。

結果、蘇我馬子は朝廷で専制を敷き、それに不満を抱いた第32代崇峻天皇は592年に馬子の差し向けた刺客によって殺害されます。自分に逆らう者は例え天皇であっても許さないといった具合に絶対的力を振るった蘇我馬子でした。

蘇我馬子 勝鬘経講讃図より

 

聖徳太子はその馬子と協調・協力し、国を挙げて仏教普及を推進し、仏教思想を土台に、中国の政治制度や儀礼を取り入れ、周辺諸国に負けないような国づくりを行います。

蘇我氏がなぜ仏教の受容に積極的だったかといいますと、彼らは渡来人との交流を通じ、大陸の優れた文化を吸収してきたことから、仏教受容によるさらなる交流発展を期待してのことだったでしょう。

遠くから幸福はやってくる
マレビト信仰

こういったことも、遠くから優れたモノが訪れて人々に恵みをもたらすという信仰が育まれる過程にあったのかもしれません。仏教の本来の目的は輪廻からの解脱により、すべての不安や苦しみから自らを救済する〈涅槃〉に入ることだったはずですが、日本において仏は人々を救ってくれる〈外国の神〉として受け入れられ崇拝されます。

遠くからやってくる〈仏〉新しい〈神〉であり、新しい神の方が若いため、力が漲った強い状態と考えられていました。日本神話の天孫降臨の際にも、アマテラスははじめ、息子であるアメノオシホミミにその任にあてますが、アメノオシホミミにはその支度をしている間にニニギノミコトが生まれたため、ニニギノミコトが降臨します。

聖徳太子の言葉「和をもって貴しとなす」という言葉は日本人の精神性を形作ってきたともいわれます。新しい価値観をそのまま受け入れるのではなく、独自の価値観に合わせた形に変換し、もとあったものと協調させ独自の文化として発展させていくことが縄文時代以来の日本文化のあり方でした。

その根底には、遠くからきた強力なエネルギーを自身に取り込み発展させるという霊魂感・信仰世界が影響しているように思います。




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