世俗王であり宗教王 日本古代史の最重要人物にして最大の謎 聖徳太子

▲画像 法隆寺聖霊院聖徳太子坐像

今回も聖徳太子についての記事です。

聖徳太子の人生における光と影

2歳の時に合掌して南無仏を唱え、14歳の時、四天王像を彫って誓いを立て蘇我馬子の軍を勝利に導いた聖徳太子。子供の時からその天才ぶりを発揮し、20歳(推古元年/593)には推古天皇の摂政となり、30歳(推古11年/603)に冠位12階を制定し、翌年にはあの憲法17条を制定し、34歳(推古15年/607)に小野妹子を遣隋使として隋に派遣するなど、様々な政治改革に取り組み、華々しい活躍を見せます。

しかし、壮年期を迎える頃、太子は突然歴史の表舞台から姿を消してしまいます。その後は国政そのものが停滞してしまいました。

太子は推古9年(601)より飛鳥から15キロ以上離れた斑鳩(いかるが)という場所に宮を造営し始めます。4年後には〈斑鳩宮〉が完成し、家族と共に移り住み、以後太子一族は〈上宮王家〉と呼ばれるようになったといいます。斑鳩の地はあの法隆寺をはじめ、中宮寺、法起寺、法輪寺といった寺院が建ち並び、仏教文化の一代拠点となります。

聖徳太子が拠点とした斑鳩宮があったとされる法隆寺東院夢殿 ・upload.wikimedia.org

太子は斑鳩宮にて仏教研究に没頭します。その集大成として『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)という『法華経』・『勝鬘経』(しょうまんぎょう)・『維摩経』(ゆいまぎょう)という三つのお経の注釈書を完成させます。さらに蘇我馬子と共同で『天皇記』・『国記』という歴史書を編纂し、現在残っている『日本書紀』の国史編纂の礎を築きます。(皇極5年(645)の乙巳の変の際、蘇我蝦夷の家が燃やされ、『天皇記』・『国記』は焼失したとされる)

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聖徳太子とイエス・キリストとの関係

昭和22年6月の『民間伝承』第11巻4・5合併号の裏表紙に、「日本民俗学の確立のためにご協力を乞ふ」という文章が掲載され、民俗学に対する疑問の提出を募る要望が出されました。

その疑問の例示として、「民俗学と民族学とはどうどうちがうか」「昔話と伝説のちがいはどこにあるか」「むかしからあった習俗の残存と、途中から出来た習慣のくずれたものと、どうしてみ分けるか」「門松はなぜたてるのか」などの疑問の例示の中に「聖徳太子を(うまやどの皇子)といひますが、キリストが厩で生まれたのと関係がありますか」というものがありました。

聖徳太子とイエス・キリストの関係性についての議論は意外にもこのような昔から問題とされてきたことは意外でした。確かに両者とも馬小屋で生まれているという共通点があります。古くは明治〜大正にかけて活躍した久米邦武という歴史学者が「太子の生誕話はキリスト教の話を参考にして作ったもの」と主張していたそうです。『日本書紀』が編纂された8世紀初めには中国にキリスト教の一派である景教(ネストリウス派)が伝えられていたことは確かです。大学の授業で、文化庁の役人であり、律令の研究をしていた教授が「聖徳太子が厩戸で産まれたという話は、景教の影響であることはほぼ間違いない」と仰っていたので単なるトンデモ話ではありません。

他にも両者の共通点はいくつかあります。その一つに、実在を証明する歴史的資料が存在しないということです。ゆえに両者とも〈非実在論〉が存在します。

イエス・キリストの事績を多く記した『新約聖書』はキリストの死後に弟子達が書き記したもので、長い歴史の間に教義・教理の辻褄合わせのために編集されてきた教典であって歴史資料ではありません。神の子イエスの絶対性を確固とする必要性からイエスに関する歴史資料はあってはならない都合の悪いものであることから現在残されていないのではないかと考えられます。

聖徳太子の非実在説に関しては平成11年中部大学教授だった大山誠一氏が『〈聖徳太子〉の誕生』という著書を発表されて世の中にセンセーショナルな話題を呼び、その後現在に至るまで様々な反論や議論がなされてきました。『日本書紀』に記された聖徳太子像が虚像であることはほとんどの研究者が認識していたことでしたが、「存在しなかった」「創造された」と断言したところが社会に大きなインパクトを与えたといわれます。

大山説の主張

・『日本書紀』に登場する聖徳太子の事績には、歴史的事実と証明できるものではない。

・法隆寺系史料はすべて後世の創作。

・したがって、聖徳太子は、藤原不比等・長屋王・道慈らが「理想の天皇」として創造した。

・実在の厩戸王は、マイナーな皇族にすぎない

(古代史再検証 聖徳太子とは何か/宝島社P.91より引用)

 

在野の古代史研究家である関裕二氏の説では、乙巳の変で蘇我氏を滅ぼした中臣氏、後の藤原氏が自身の罪を隠蔽するため、『日本書紀』において蘇我氏を悪役として描き、代わりに蘇我氏の成した国家に対する多大な功績を聖徳太子という超人的な働きをするヒーローを創り上げ、全ては太子の業績としてしまったといいます。



死後に信仰の対象となった両者

聖徳太子とイエス・キリストのもう一つの共通点として死後に信仰の対象となったことが挙げられます。イエスは世界宗教である〈キリスト教〉を生んだことは勿論ですが、聖徳太子もその死後に信仰の対象となります。推古30年(622)年に太子は病により49歳にしてこの世を去ります。その死を天下万民がこぞって嘆き悲しんだといいます。時代は下り死後100年を過ぎた頃聖武天皇の皇后である光明子は深く太子を信仰し大法会や太子の供養を行いました。もっとも、聖武天皇自身が太子の生まれ変わりであると考える信仰が成立していたともいいます。共に、仏法によって国家に平和をもたらす存在と考えられていたようです。鎌倉時代には太子信仰が庶民にも浸透していったといいます。太子を祀った〈太子堂〉が全国各地に建てられて地名になったりもしています。太子信仰は〈太子〉」という大工・左官・鍛冶屋などを中心とする信仰組織として現代に残っています。

このように信仰の対象となっているのですから、両者においては、実在を証明する歴史資料が無いからといって実在しない訳がありません。

ずっと存在を信じて疑わないのですから当然、信じる人にとってそれは確実に存在します。神社の神様にしてもそうです。逆に神社に神様が歴史的に実在したことを証明する資料がある方が少ないと思います。どこどこ神社の神様の正体はなになにだという議論が古代史の研究家の間で行われますが、人間の頭で考えたって答えは見つかるとは思えません。それは完全に心の世界でしか捉えることができません。

これは私の先輩神職が言っていたのですが「例えその神様がはじめはこの世に実在しなくとも、日々その神に強く祈り、さらに多くの人が祈っていけばそれがやがて神を生み、強大な力を発揮する存在となる」とのことです。

国立大学で心理学の教授をされている中村雅彦氏は「神様とは意識の場」と説明されています。(『祈りの研究 現世利益の実現』(東洋経済新報社))

なんだか上手くまとめることができませんでしたが、聖徳太子についてあれこれ考えてみると色々思うところが出てきましたので記事にしました。





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