東日本大震災と民俗学 先人が語る災害の教訓

3.11から6年が経ちました

昨日は3月11日でした。日本人にとって忘れることのできない東日本大震災が起こった日です。本当はもっと早く記事を書くべきでしたが間に合わず、本日3月12日の投稿となりました。被害に遭われ他界されました方々の御霊が安らかならんこと、ご遺族の方々の心が癒えますようお祈り申し上げます。

震災当時、私は東京に住んでいました。ゴミ収集の仕事を終え、顔を洗いロッカールームで顔を拭いていましたところ、目まいのような感覚がやってきました。すると段々周りが揺れ始め、「揺れてますよね?」と近くにいた職員さんに言うと揺れが激しくなり始め、広い部屋へ避難し机を抑えて激しい揺れを受けました。

私がいた清掃事務所の屋上からボイラーが壊れたのか煙が勢いよく吹き出し、通行人が指をさしてこちらを見ています。「ここにいて大丈夫なのか?」と思いつつ、テレビをつけると東北で大きな地震が来てもうすぐ津波が到達するとのこと。そうしているうちに、そこは焼却炉のある工場も兼ねていた事務所でしたので激しい揺れに伴い電源がカットされ、テレビが見られなくなりました。自転車で家に帰りテレビをつけるとあの、信じられないような光景が目に飛び込んできました。

あの震災で本当に多くの人が亡くなりました。その当時、半年前に私は実の弟を若くして亡くしていましたので、震災で身近な親族を亡くして悲しむ人の気持ちが痛いほどに感じられ、居た堪れない気持ちになりました。そして自分には何もできないという無力感。

私が、迷っていたのに神主になろうと決心したのは、せめて世の中で亡くなった人や、傷ついた人のためにきちんと祈れる人になれればという思いもありました。

スポンサーリンク



『遠野物語』に描かれた震災と津波


東日本大震災と柳田国男が著した『遠野物語』を関連付けて書かれたものはすでに多くありまして、今更ここで書く必要もないかもしれませんが、ご存知無い方もいらしゃるでしょうし、ちょうど民俗学に関する記事を書き始めたところですので、あえて書かせて頂きます。

「国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。」これは遠野物語の序文の一部ですが、岩手県の遠野市に伝わる妖怪の話や、家々の言い伝えが119話収められています。これは遠野出身の佐々木喜善という人の話を柳田が聞きとって、著書に纏めらたものです。その99話目に、明治29年(1896)6月15日に起こった明治三陸大津波の話があります。以下がその話です。

九九 土淵村の助役北川清と云う人の家は字火石(ひいし)に在り。代々の山臥(やまぶし)にて祖父は正福院と云い、学者にて著作多く、村の為に尽したる人なり。清の弟に福二と云う人は海岸の田の浜へ聟(むこ)に行きたるが、先年の大海嘯(おおつなみ)に遭いて妻と子とを失い、生き残りたる二人の子と共に元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。夏の初の月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたる所に在りて行く道も浪の打つ渚(なぎさ)なり。霧の布(し)きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正(まさ)しく亡くなりし我(わが)妻なり。思わず其跡をつけて、遥々(はるばる)と船越村の方へ行く崎の洞(ほら)ある所まで追い行き、名を呼びたるに、振返りてにこと笑いたり。男はと見れば此(これ)も同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が聟に入りし以前に互に深く心を通わせたりと聞きし男なり。今は此人と夫婦になりてありと云うに、子供は可愛くは無いのかと云えば、女は少しく顔の色を変えて泣きたり。死したる人と物言うとは思われずして、悲しく情なくなりたれば足元を見て在りし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦(おうら)へ行く道の山陰を廻(めぐ)り見えずなりたり。追いかけて見たりしがふと死したる者なりしと心付き、夜明まで道中(みちなか)に立ちて考え、朝になりて帰りたり。其後久しく煩(わずら)いたりと云えり。

要するに、津波で失った妻の幽霊を、残された夫が目撃したという話です。その妻は今は元カレと結ばれたと言い、夫が残された子供たちは可愛くないのかと聞くと、妻は悲しくなり泣きます。その後夫は随分と落ち込んだと、こういう話です。

東日本大震災でも亡き家族の幽霊を見たという話しはよく聞きます。震災や津波に限らず、人は突然に身近な家族を失うとそのようなものを見ることがあるようです。



神社と津波

3年ほど前でしょうか。私の奉職する九州の神社へ、遠野市から神職が親子でお参りに来られ、せっかくですからと正式参拝していただきました。何でもキャンピングカーで全国を廻られ、震災復興と防災を呼びかけて、巡礼の祈りの旅をされているとのことでした。

その神職親子のお社は高台にあり、ここに周辺の住人の方々が非難され命が助かりました。以後しばらくの間70人もの人々がこの神社で避難生活を送ったそうです。

このように、東日本大震災で神社に避難して助かったケースは多くありまして、津波が押し寄せたライン際に神社が多く鎮まっていましたことから、これは不思議だなどと一時期言われておりました。

http://www.dailymotion.com/video/xkmxai_20110820-原発建設-警告は無視された_news より

しかし冷静に考えると、神社はもともと地域共同体の要であり、自分達を見守ってくれる大切な神様がいらっしゃる場所です。当然高い所に神社を建てるべきで、しかも災害被害に会うような場所は絶対に避けなればなりません。当然津波が来る所は選ばれないはずです。もしそういった場所へ津波が来れば更に高い安全な場所へと神社は遷されたことでしょう。こういったことも〈文献史料〉とは異なる〈民俗史料〉といえるでしょう。昔の人が残したものを正しく読み取るのも民俗学の役目です。そうすれば人の命も守られるのではないでしょうか。

復興へ向けて

〈進まない復興〉とよく申しますが、本当の意味での復興とは何でしょう?震災が来る前迄の、元通りの姿に戻すことなど不可能ですし、亡くなった人は戻りません。

残された我々が、亡くなった人たちの声を心で聴き、お互いの幸せのために前を向いて一生懸命に生きること。こういった気持の持ち方ができた時点でその人はもう既に復興したことになるのではないかと思います。そして、我々一人一人がこの気持ちを共有できれば更なる復興に繋がります。

世界で一番自然災害の多い国ニッポン。辛いことが本当に多い世の中ですが、我々は決して一人ではありません。神様、ご先祖様、家族、友人、全く知らない日本国民、外国人だって困った時は助けてくれます。唯々いま生かされていることに感謝していくしかありません。

〈頑張れニッポン〉もいいかもしれませんが、そういった意味では〈頑張れワタシ、ワタシタチ〉もいいのではないでしょうか。





コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*