日本民俗学は輸入学問にあらず そして文化人類学の一つでもない 日本独特の学問たるその所以とは

民俗学は日本のオリジナル

社会学、経済学、政治学、憲法学と、日本に数ある輸入学問とは違い、日本民俗学は日本独特の学問です。文化人類学の一つのカテゴリーではありません。

世の中のことを正しく理解するために、地方の様々な祭礼、信仰、昔話、方言、道具などの〈民俗資料〉を広範囲に収集し、文献に照らし合わせ比較しながら〈人々の生活がいかなる変遷を辿ってきたのか〉を分析、研究する学問です。よって、文献だけにては知り得ないことを調べるための〈もう一つの歴史学〉という位置付けにあります。

具体的にどんなことを日本民俗学が発見してきたかを紹介したいと思います。過去にも記事に沢山書いてきましたが、遠くからやってくるモノが幸福を運んでくるという〈マレビト〉。また、地鎮祭などの出張祭典にて神様が榊などに一時的に宿られるといった〈ヨリシロ〉。日常と非日常を分けて考える〈ハレとケ〉。

こういった〈分析概念〉を民俗学は発見してきました。

人間は物事を本当に理解するためには概念化、すなわち言語化しなければなりません。人々が日常のなかで当たり前すぎて気にも止めたことのなかった事物に対して、〈マレビト〉〈ヨリシロ〉〈ハレとケ〉といった名前を付けて、その裏にあるメカニズムを民俗学者たちは解明してきたのでした。

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ヨリシロの発見

大正4年(1915)に折口信夫が「髭籠(ひげこ)の話」という論文を発表しました。折口は祭事にて神を招き、神が依り坐す依代(よりしろ)〉という民俗概念をはじめて提示します。髭籠(ひげこ)とはお祭りの山車のてっぺんに付けられる装飾のようなものです。

 

竹や針金を編んで、編み残しの端を、ひげのように延ばしたかご。贈り物などを入れるのに用いた。泥鰌籠(どじょうかご)。ひげかご。(デジタル大辞泉の解説

これが実は神様を招く目印〈招魂装置〉となります。神が宿る高い木があり、さらにその上には依代がある。しかし、ただ目立てば良いという訳ではなく、神の肖像となるべきものを据える必要で、髭籠のかごの部分が太陽を表し、余って伸び垂れ下がった竹がその後光を表していると折口は説きます。

これを読んだ柳田國男はビックリします。ちょうど柳田も「柱松考」という講演を行うなど(大正3年1月の『郷土研究』第1巻11号雑報に記される)神の降臨とそれに関する装置に対する研究を行っていたのです。柱松とはかつて盆の行事として全国的に行われていたものでした。

柳田は「柱の頂点において火を燃やすことは火の光を高く掲げるために柱を要としたのではなく、柱の所在を夜来る神に知しむるためであったことは、日中の柱に旗を附することを思い合わせるとほぼ疑いがない。」(「旗鉾のこと」『定本柳田國男全集』11巻p.32〜33)という説を唱えていました。

奇しくもこの時期に民俗学の基本的概念の一つが、柳田・折口の両巨頭によって発見され、提示されていたのでした。しかし折口の「髭籠(ひげこ)の話」を読んだ柳田は驚きと同時に、これを批判します。そして自身の「柱松考」を自身が編集する『郷土研究』に発表した次号で、折口の「髭籠の話」を掲載するのでした。

これを知った折口は「それだったら発表しなかったのに」と一切反論しなかったといいます。柳田に対して恨みどころか、逆に悪いことをしたと反省していたようです。折口は柳田を最大の師匠だと絶対的に尊敬しており、柳田も折口を大変高く評価し、お互いに認め合い尊敬し合える師弟関係にあったのです。

実証性を重視する柳田と
天才的直感で判断する折口

では、折口の論文の何がいけなかったのでしょうか。それは、折口が天才肌でインスピレーションにより瞬時に物事を理解し、即結論に入ってしまう論法をとったからです。アインシュタインは数学ができすぎたせいで数学の成績が悪かったといいます。それは普通の人なら計算式を用いないと解けない問題を、見ただけで瞬時に答えが分かってしまったからだといいます。アインシュタインはその答えに至る説明ができません。普通の人でいえば1+1=2をなんでそうなるのかを説明せよと言われているようなものです。当たり前過ぎて説明のしようもありません。

しかし結果的に見れば折口の直感による理解は正しいことが多いのです。この頃、稲ニホ(田んぼの脇で刈穂を積んで祭ったもの)の〈ニホ〉はニフナメ(新嘗祭)の〈ニフ〉だと折口が直感で理解して断言していました。証拠がなくては困ると柳田は考えていましたが、20年後に柳田自身も「どうやらそのようだ」と考えるようになったといいます。

「折口君の早い暗示を、まともに受け入れなかった為に大へん仕事がおくれ、明日にこの解決を残して行くことになったのは、後悔の種である。」「知恵の開きの二十何年の差は情けない」と柳田は語ったといいます。(『民俗学とは何か』/新谷尚紀/吉川弘文館 p.168)

柳田は一つの事例から答えをすぐに出してしまうのではなく、類似の事例を広範囲にかつ数を最大限収集し、比較分析し、文献に照らし合わせ、丹念に時間をかけて整理しながら結論付けをし、立証する〈重出立証法〉という研究方法の構築を目指していました。それによって西欧科学の実証性を説く既存の学問に対抗しようとしたのでした。

折口のように直感で結論を出していては、世の中みんな天才ならばそれでいいのですが、そうもいきません。それでは後進の育成も、今後の民俗学の目指す方向性を示すこともできない。よって、柳田は折口の「髭籠の話」を「こんなものは認められない」と批判し、自身の「柱松考」の後に折口の「髭籠の話」を発表したのでした。なにも出し抜くような意図はなかったと思います。(多分)

マレビトの発見

マレビト論は折口信夫のオリジナルです。マレビトに関しては 来訪するカミ マレビト論の実際 というシリーズ記事に書いていますので、こちらをご参照ください。

・来訪するカミ マレビト論の実際① 神事として発生した「芸能」の呪術性について

・来訪するカミ マレビト論の実際② ニュートリノ

・来訪するカミ マレビト論の実際③ パンスペルミア仮説

・来訪するカミ マレビト論の実際④ 古来祭祀のカタチを受け継ぐ出張祭典とお正月本来の目的

今後もこちらは続けて行こうと思います。マレビト論の概要は以下のような内容です。

『折口信夫全集第二十巻』(中公文庫)より

・たましひは肉体に常に在るものとは考えていなかった

・肉体はたましひの一時的、仮の宿りにすぎない

・たましひはいつでも外からやってきて人間の肉体に宿り、宿った瞬間から、そのたましひの持つだけの威力を、宿られた人が持つことになる

・宿ったたましひが遊離し肉体を去ると、そのたましひの持つ威力も失うことになる

p199から200より抽出解釈)

 



ハレとケ

ハレとケ〉は柳田國男のオリジナル概念です。日本人の生活を構成する基本的な要素として、非日常的と日常的な時間感覚を示す概念としてハレとケが使用されました。

ハレ〉は、例えば年中行事、結婚式や初宮参り、お葬式などの人生儀礼といった非日常の時空間を指し、〈〉は普段日常で繰り返される時空間のことでです。この2つが分かれているからこそ、ハレの日には興奮や喜びがもたらされます。このような生活に区切りがあることで、日々の暮らしに節度とリズムが発生します。

例えばお正月にはおせちや餅などを、祭礼の日には、がめ煮や、お寿司などといった特別な食べ物を、何日も前から準備して調理します。手間をかけて神にささげる特別な食べ物を作り、これを共に食べることで神霊と交わり力を授かる。そしてハレの日にはとっておきの晴れ着をきます。

もっとも、柳田の関心は、近代がもたらした社会の変化にあったようです。この点が、生活文化がいかにして変化したか、そして、して行くのかを視る〈変遷論〉としての民俗学の立場が伺えます。明治以降庶民の生活が変容し、かつてはハレのだったものが日常化し、滅多に現れないからこそ沸き上がる昂奮というものが薄れてしまいました。

食事でいえばお醤油なんてものは、お祭りの時しか使えなかったと昔の人から聞きます。お酒は造っても量は限られ、貯蔵も効かなかったそうで、日常的に飲酒をすることはなかったといいます。一説によれば日本人が日常的に飲酒するようになったのは日清戦争時に兵隊さんが体を暖めるために飲んだことからだそうです。

お酒は神様へのお供えには日々欠かせない大事なものです。お酒は昔の人にとっては不思議な飲み物で、飲めば酔っていい気分になるし、日常とは違う感覚を味わうことができました。あたかも神と交流するかのような異世界へ繋がるような感覚があったことでしょう。どうしてこのような液体ができるのか事態が不思議です。それもきっと神様の力によるものだと考えられて来ました。今でもお酒を造る杜氏は神様を祀ります。

話を戻しまして、このように日常に非日常が入り込んできて、以前はハレの日に身にまとった晴れ着ですが、色彩の感覚もずいぶん変わってきました。白は神聖な色として祭事や冠婚葬祭に主に衣服に使用されていました。また、赤や青や黄といった天然色の派手な色も、祭礼などのハレの日のみ用いていました。日本人はかつて、普段着には淡色系の着物を着て生活していました。今では豊富なファッションによりその色彩に対する節度はなくなっています。

日常と非日常との境がなくなれば生活にメリハリが失われ、文化的退廃に向かうことを、柳田國男は危惧していたのかもしれません。





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