民俗学は広義の史学で変遷論 正しく継承されなかった柳田民俗学の〈重出立証法〉という調査研究方法について 

堅苦しいタイトルになってしまいましたが、前回に引き続いて今回も民俗学に関する記事です。民俗学の分析概念〈マレビト〉〈ヨリシロ〉〈ハレとケ〉の3つを挙げて、民俗学が日本独自の学問といえる理由を説明しました。今回は柳田國男が提唱した〈重出立証法〉という民俗学の研究方法について述べます。

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正しく継承されなかった
柳田國男の民俗学

柳田國男は、一つの事例から答えをすぐに出してしまうのではなく、類似の事例を広範囲にかつ数を最大限収集し、比較分析し、文献に照らし合わせ、丹念に時間をかけて整理しながら結論付けをし、立証する〈重出立証法〉という研究方法の構築を目指していました。しかし、この方法は1970年代後半に否定されます。

柳田の民俗学は現地調査(フィールドワーク)によって民俗資料を収集し、その資料を基に研究を行うのですが、調査そのものに膨大な労力と時間がかかります。その長い過程において、単なる伝承の羅列や、調査の報告のような論文ばかりが生まれ、一向にその成果は現れる気配がありません。

そこで、日本全体が均一の文化圏にあり、文化伝承が時間をかけてある地域から他の地域へと伝播していくという柳田の変遷論から離れ、あくまでも地域そのものを研究対象とする研究法が、福田アジオによって示されます。

福田はこの方法を〈個別分析法〉と呼び、「今まで分離していた調査と研究を統一し、それぞれの調査の過程で分析を加え、一般理論化して提出することである」と提唱しました。要するに、〈重出立証法〉はもはや無理だと否定されたのでした。

柳田國男の晩年は後悔と憤り、鬼気に似た憂国の情に満ちたものだったようです。昭和29年(1954)第6回日本民俗学会年会において、文化人類学者の石田英一朗が、民俗学はもっと積極的に大学組織の中に入っていくべきで、その際は文化人類学の中に位置付けるべきであるという内容の発言をしました。

それに対し柳田は「日本民俗学は広義の日本史である。それにもかかわらず、石田の見解に対して批判をあえてするものもなく、民俗学は低調でその発展は心細い。かかる無力な民俗学研究所は解散し、学会の発展に主力を注ぐべしという重大な発言をした」といいます。(関敬吾「日本民俗学の歴史」『日本民俗学大系』第2巻/平凡社より)

柳田は門人が一人として石田の発言に反論しなかったことに怒り悲しみました。

翌年の昭和30年(1955)年末に開かれた研究会の席上にて柳田は「民俗学は、文化人類学の中に位置付けるべきではない、舶来のものばかり尚ぶのは問題である、広い意味での歴史学の中に位置づけるべきである、しかし、いまの歴史学は本当にいけない、国史はもっと具体的なものにして、平民のものにすべきである」(今井冨士男「柳田國男の民俗学」『成城文芸』29号より)と主張したといいます。

晩年の柳田は「惜しいことをした。昔話や方言などに熱を上げるんじゃなかった。もう時間が足りない」というような愚痴をよくこぼしたようです。また、昭和35年(1960)には自身が説いた〈方言周圏論〉に関して「あれはどうも成り立つかどうかわかりません」と語ったといいます。そして昭和37年(1962)に柳田國男は88歳というその長い生涯を閉じます。

昭和10年(1935)に民間伝承の会が柳田邸で設立され、民俗学が形作られていくという過程の最中に戦争が始まってしまったことが悔やまれます。研究の基礎固めが十分に出来なかったことが、柳田の目的を阻んだのだと思われます。

また、晩年は憂国の念に駆られて、憂国の思想家然とした思索に時間を掛けます。『先祖の話』は日本人の祖先観の到達点と言われる著作です。

これは敗戦が濃厚となってきた昭和20年春に、戦死した多くの若い日本人の魂の行方を案じ、連日の空襲警報の中で書き綴られたといいます。



方言周圏論

柳田國男は、昭和2年(1927)に「蝸牛考」という論文が発表し、民俗学の独創的な視点と、自身の目指す学問の方向性を示します。

蝸牛(かぎゅう)とはすなわちカタツムリのことです。論文の最初の項目に「平凡なる不思議」という項目が掲げられ、その中で、クモやモグラのように全国的に共通する言葉に対し、カタツムリやメダカのように各地方において異なる名称で呼ばれる(その数百ものバリエーションがある)。しかもその名称の使用はそれぞれ複雑な地域的分布をみせている。これはどういうことか?という疑問から調査分析へ、そして〈方言周圏論〉という仮説の提示へと至る論考が「蝸牛考」です。

例えば当時、カタツムリの呼び方として〈デデムシ〉が近畿地方を中心に濃厚な分布が見られていたのに対し、その東西方向にある関東や中国地方では〈マイマイ〉といった呼称が使われていました。それはちょうど静かな水面に広がる波紋のように、中央の都市で発生した言葉が地方に伝播してゆくという関係です。

都市が文化発生装置として地方に文化を伝播していくという解釈のもと、比較を中心とする新しい方法を示しました。つまり、〈地域差〉は〈時間差〉でもあり、それは歴史的変遷であるということでした。

1970年代には言語学者の間で方言周圏論は有効だと論証されていましたが、それにも関わらず、前述の通り1970年代後半に民俗学者の間では、柳田の〈重出立証法〉の考えは否定されます。

映画 グランドマスターの記事を最近書きましたが、この映画のなかでゴン・パオセンが娘に「人の優秀さや、その良さを知ろうともせず、認めてやれないのは度量が狭いからだ」と語りますが、正にその通りで、柳田の書をよく読むこともなく否定されていたようです。

この〈方言周圏論〉と〈重出立証法〉が再び世間に見直されるまでは平成になるまで待たなければなりませんでした。次回はそのお話をします。





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