この世に時間は存在しない?一瞬一瞬の時は永遠に存在し続ける 中今という神道の歴史観について

前回は実際問題としてこの世は存在するのか?という記事でした。今回は時間が存在しないということについて書きます。前回記事は現実逃避して辛いことが忘れられたなどの反響が聞かれました。狙い通りではありませんが、これから5月へと向かう精神的に不衛生となる時期にあっって需要を満たす記事となるかもしれません。

しかし今回も世迷い言ではなく、真剣に時間が存在しないことについて書きます。

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無常観の影響

1日は24時間。1年は365日。刻一刻と一瞬も休むことなく、世界は時を刻んでいます。我々の生活はこの〈時間〉によって区切られ、制約されています。

鴨長明『方丈記』の一節に「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」とあるように、川のように過ぎ去った時間は再び戻ってはきません。こういった情感を〈無常観〉といいます。この情感は仏教や、論語などの書物にもみられる普遍的な感覚ではありますが、中世以来、日本人の精神文化に深く影響を与えてきました。

日本人は散りゆく花、虫の音、雨、風といった気象現象、山や川といった風景から気候の変化を通じ、四季の移り変わりに、〈はかなさ〉から、自然や生命の営みに美しさを感じてきました。

江戸時代の国学者本居宣長は、〈もののあわれ〉という言葉を提唱し、『源氏物語』などにみられる、平安時代の文芸理念・美的理念、を評価し、その中に美を見出しました。



神代即今 今即神代

本居宣長は、〈もののあわれ〉という無常観に美を見出す一方で、〈中今〉という歴史観を説きます。

デジタル大辞泉の解説

なか‐いま【中今】

神道における歴史観の一。時間の永遠の流れのうちに中心点として存在する今。単なる時間的な現在ではなく、神代を継承している今。

コトバンクより

宣長先生は、古事記・日本書紀に描かれる、はるか遠い昔の神代の時代について、その時代を信じ仰ぐだけの対象ではなく、〈神代はいまこの時、今現在の現実世界に内在し動かし続けている〉としました。つまり、〈神代は永遠に存在し続け、その瞬間瞬間に立ち現われ、その今を積み重ねて時代が進んでゆく〉という歴史感覚です。

私は以前ザックリ解説『古事記・日本書紀』 天岩戸開きは祭祀によって永久に再現されるだろう という過去の記事に、天岩戸神話での祭祀を永久的に再現・再演されるかのようにして、神社にて祭祀が伝承されていることについて書きました。つまりは〈神代即今〉〈今即神代〉なのです。

今のこの瞬間を
精一杯生きていく

石清水八幡宮の宮司であり、神社本庁総長の 田中恆清 氏は平成27年2月8日に、NHK教育テレビの 「こころの時代」にて、以下のように述べられました。

簡単に申し上げますと、我々今この時代に生きているということは、過去があり、そして今があり、未来がある。その中間点に我々は居るわけですね。従って神道(しんとう)の中では、「中今」と、このような表現をしているわけですね。ですから未来がどうであろう、過去がどうであろうとか、そういうことではなくて、先ずは自分の生かされて、今この時代をどう人間として一生懸命生きていくかということが、中今の精神なんですね。(中略) 神道では、本居宣長(もとおりのりなが)(江戸時代の国学者・文献学者・医師:1730-1801)が言っているように、『古事記伝(こじきでん)』の中でそのことを述べているわけでありますけれども、過去、現在、未来と、そういう時代の流れがあって、我々は、「今の時代を生かされている。そしてその生かされている時代を一生懸命に全力を尽くして生きていく」これが神道の根本的な考え方なんですね。ですから勿論過去のことも、未来のことも、思いますけれども、しかしそれよりも「今のこの瞬間を精一杯生きていく」ということが、神道の真髄だと思いますね。

かつて、江戸っ子が宵越しの銭を持たない(持てない)のには様々な理由がありましたが、この感覚はその日暮らしの、1日が一生であるかのような感覚があったことでしょう。

ただ今を一生懸命生きる。過去を後悔してクヨクヨしたり、起こりもしない悲劇を想定して将来に不安を抱いたり、憂いたりしていては力が湧きません。過去のことなんて曖昧で不確かであり、いつかは忘れ去ってしまうもの。未来とはいくら考えても分からない、知ることのできない領域のものです。「今でしょう!」の林修先生ではありませんが、当然ながら、一番大切な時とは今なのです。

田中恆清氏によれば、「今のこの瞬間を精一杯生きていく」ということが、神道の真髄ということです。

私も、神道ではその時その時の瞬間に神が立ち現れると考えられてきたように思います。例えば、真剣勝負の太刀合いにおいて、相手に攻撃を受ける瞬間において、右に避けるべきか、左に避けるべきか等と考えていてはとても間に合わず、死にます。

攻撃された瞬間は考える余地などなく、人はとっさの感覚による選択を行います。攻撃をする時も然り、あれこれ考えて作戦を凝らすことはあっても、生きるか死ぬかの勝負自体は一瞬。そこには自分の考えや実力が入る余地のない〈尋常ならざる力〉が発揮されます。

これこそ本来は神である人が本来の神性を発揮する瞬間なのです。神代さながらの神の力を発揮する瞬間こそ武道の真髄です。当然ながら武道は神道の一部なのです。私は柔道部で、合気道も少しやりました。大学の授業で、武道を履修した試験の際、「剣道と合気道の共通点とは何か」という設問がありました。私は「技をかける瞬間の心の状態」であると答えました。

ふたつの時間概念

度々紹介しますが、人気ブログin deepに、2年ほど前の記事に古代ギリシャの時間概念について触れられていました。

ギリシャにあった偉大な時間の概念

古代ギリシャには「ふたつの時間の観念」がありました。

クロノス時間とカイロス時間というふたつです。

クロノスは、現在でも使われている時計などで表すことのできる「いわゆる時間」の観念で、カイロスは、一般的な時間とはちがう「主体的な時間」を指します。

ということは、実際には「カイロス時間」には物理的な定義がないですので、「時間は存在しない」という意味にもなります。そういう観念を持っていたということは、古代ギリシャの人たちはきわめて精神的な存在でもあったといえます。

その中で、「物理的な文明発展」も進む中では、主体的な時間だけでは不都合で、それで、現在の「時間」となるクロノス時間というものが発明されたのかもしれません。

人は同じ長さの時間であっても、楽しい時はあっという間に感じて、苦しく辛い時は長く感じます。その意味で時間とは長くもなり、短くもなります。

子供の時は1日がとても長く感じていましたが、大人になると1日が加速度的に早く感じていきます。高齢者の方は1年でさえあっという間だとおっしゃいます。この感覚でいくと、人間が天寿を全うしたとしても時間感覚でいけばその折り返しは20歳ぐらいだとも言われています。

過ぎ去ってしまった時間は、再び戻って来ることはありません。

大切な家族と過ごした時間は、その家族が例え亡き人となった後も、未来永劫その〈事実・出来事〉は存在し続け、〈〉に影響を与え続けていると考えることもできるのではないでしょうか。




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