芸能と武家政権 政治に取り込まれる芸能の力

前回は、人間社会と外部との境界から尋常ならざる力を迎え入れる芸能人について書きました。芸能人とは本来、外部から力を得てその能力を発揮する存在でした。

鎌倉時代に書かれた『普通唱導集』のなかで芸能を業とする人として、歌人・遊女・鍛冶屋・武士といった職業が記されています。

今回は、さらに武士が室町時代に入ってから幸若舞(こうわかまい)、田楽、猿楽、といった芸能の徒等との関係も深めていく過程についての記事です。

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室町幕府に庇護された〈能〉

能を非常に好んだことでも知られる室町三代将軍足利義満が観阿弥・世阿弥親子の率いる結崎座の芝居を初めて見たのは、1374年(文中3年/応安7年)に新熊野神社においてであったといわれています。

それを見た義満はその芸と世阿弥の美貌に惚れ込み、彼の所属する結崎座を庇護したことで、やがて武家全般において猿楽がもてはやされるようになります。これは武家と芸能との関係において大きな転機となる出来事でした。

古代から中世にかけて大和では、諸社寺を興業の拠点とし、法会などに際して〈猿楽〉が行われ、聴衆の人気を集めていました。その中でも興福寺を本所とする大和猿楽の大和四座(結崎座•坂戸座•円満井座•外山座)がやがて中心となって〈能〉へと発展していきました。

日本芸能史

中世は様々な芸能が生み出された時代であり、その元となったのが奈良時代に中国から伝わった滑稽な芸やものまね、曲芸、奇術などによる〈散楽(さんがく)〉で、鎌倉•室町時代に大和や京を中心とする畿内の諸社寺において盛行した〈延年(えんねん)〉という法会の余興に僧侶や稚児が行った芸能のなかで育まれ、白拍子•舞楽といった歌舞や朗詠、連事(つらね)•風流といった劇芸能、開口(かいこう)•当弁(とうべん)といった滑稽芸を生みました。

猿楽は散楽の転訛と云われ、鎌倉時代には仮面劇の要素の加わった歌舞演劇、猿楽能となり、一方では民間の豊作祈願を予祝する神事芸能である田遊びを元にして生まれたとされる田楽も猿楽と同様に演劇化し、田楽能が生まれました。

この二つの能を集大成し、延年で行われていた様々な芸能と、〈曲舞〉という南北朝から始まった囃子にあわせてゆったりした所作で舞う舞いを取り入れて新しい芸能として発展させたのが観阿弥であり、その子で時の権力者の強力な後援を受けた世阿弥は、幽玄の美学を追求した芸術性の高い〈夢幻能〉の様式を確立させました。

世阿弥は数多くの演目を創り上げ、それらは、女性が激しい思いから物狂いとなる物狂い能など、生きている人間のみが登場する〈現在能〉と、平家の怨霊が登場し怨みを語る修羅物「高砂」、「老松」で祝言をあげる松の精など異界から現出する神霊が登場する「夢幻能」に大きく分けられます。

申楽(さるがく)=神楽
芸能は神懸からはじまった

世阿弥は著書『風姿花伝』において、天石窟説話での天鈿女命の神懸かりの神楽が猿楽の起源であるとし、本当は猿楽は神楽なのだが、この語を使用するのが畏れ多いので神楽の「示」偏を除いて「申楽」としていると述べていることから、能の舞台において実際に神懸かりを起こすことは無いにせよ、それを様式的にストーリーに反映させることで幽玄の世界を表現していることが伺われます。

民俗学者の松尾恒一氏は『儀礼から芸能へ—狂騒•憑依•道化—』(角川学芸出版)において、以上で述べたような社寺の延年、修正会、修二会などで行われる呪術性を帯びた所作を持つ芸能が猿楽、田楽へと発展する過程を説き、それらの芸能が現代で演じられる能•狂言の舞台とは正反対で、当時においては観客を熱狂させる呪術性要素を多分に含んだ身体表現、声音を伴う芸術であったことを説いておられます。

これによれば、当時の芸能がいかに人々を熱狂させたかを示す例として、貞和五年(1349年)京都四条河原で将軍が訪れる程の大規模な田楽の催しが行われたことが『太平記』に記されていることを挙げておられます。

この田楽は鴨川四条に大橋を架けるための寄付金集めのために開催されたものでしたが、熱狂した観客が騒いだことで浅敷(舞台•観客席)が倒壊してしまい、下敷きになる者、混乱に乗じて盗みを働く者、これを追って斬り合いとなり血飛沫が飛んだり、ひっくりかえった釜の湯を浴びてしまう者がいたりと、その混乱ぶりを『太平記』が描いています。

また、古代では国家や共同体のための祈祷として奏されていた神楽が、中世においては個人の依頼によってもおこなわれるようになっていたことを示す例として、ルイス•フロイスが著書『日本史』に記している奈良の春日社での巫女の神懸かりの様子をあげています。

誰かが健康•富•安産•勝利、あるいは紛失物を再び修得することを願うとき、この神子のところへ行って、自分のために神楽をあげてもらうのです。そうすると、数人の社人が太鼓やその他の楽器を持って現れ、そのうち一人が細長く切った神片を結びつけた一本の棒を手に持って、神像の前で舞うのです。

彼女は地獄の叫喚と絶え間ない咆哮のように思われる程の激烈さを持って、また、音楽の伴奏につれてそれほど熱情的に、急速に舞いまくって、ついに失神したように地上に倒れてしまうのです。その時、神の霊が彼女に乗り移るのだと言います。それから、彼女は起き上がると、頼みに来たことに対して答えます。
(フロイス『日本史』3〈東洋文庫〉 第十六章 アルメイダの書簡より引用)

この例から神楽の巫女による神懸かり託宣が、見るものを戦慄させるような激烈なものであることが伺えます。能の舞台上での様式化された美しい物狂いの様とは対照的です。

周縁から中心へと取り込まれる〈能〉

このように中世の芸能は人々を熱狂させて楽しませる民衆にとって身近な芸能でありましたが、観阿弥•世阿弥親子が足利義満の擁護を受けていたことから猿楽が次第に整理されていき、室町時代中期には観世座を中心とする大和四座が幕府の公式の音楽•演芸として年中行事の儀式で演じられるようになります。このような音楽を〈式楽〉と呼びます。

幕府の式楽になった能でしたが、応仁の乱による都の荒廃とともに衰退し、幕府瓦解によって窮地に立った時期もありました。しかし、戦国大名らによって再び脚光を浴びることとなります。

なかでも豊臣秀吉は大の能楽好きで知られています。秀吉は能役者を庇護し、能の保護制度を整備するだけに留まらず、文禄二年(1593年)には天皇の御前で配下の大名(徳川家康、前田利家、毛利輝元ら)を引き連れて自ら能や狂言を演じる禁中能をおこなう。また『明智討』、『柴田』、『吉野詣』といった、自身の事跡を新作能として創出するほどの熱の入れ様でした。

これは政治的な見方をすれば、天皇に自身の政治支配の正統性を示し、武家政治による国家安泰を誓うために、支配者である当事者らが演芸を捧げ奉る儀礼であったともとれます。

その後、江戸時代に入った後も、徳川家康が能楽愛好家であったため能の保護制度は引き継がれ、能は徳川幕府においても儀式で奏される芸能である式楽に定められ、家元制度が確立します。この際に能の演技は公的な行事の場に相応しい形に整えられ、現代演じられている能のスタイルがほぼ出来上がったと考えられています。

能は「武家式楽」として文章や演出を勝手に変更することが禁じられたために、進化を許されない特殊性を持った芸能となります。これは徳川家光が参勤交代制度を布いたことに起因しており、当時は日本語という共通語が無かったため、江戸に集まった大名や武士達は会話が困難であった。これを解決する方法として当時の武士が愛好する能の詞章の部分である謡曲を武家全員が学ぶことでその発声、発音、語意を用いて共通語とする試みがされたのです。

こうして能は武士の正しい作法を学ぶ嗜みとしての芸能、すなわち「支配者の芸能」として確立していきます。かつては〈辺境〉の芸能として始まった能が、社会の〈中心〉へと取り入れられ、フォーマルなものとして変化していったことが分かります

この現象は芸能と社会・政治との関係の中で繰り返されるものなのでした。




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