『明治大正史 世相篇』を通読し、面白いと思ったことを挙げてみる 前編

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『明治大正史 世相篇』という本があります。民俗学者の柳田國男という方が書かれました。この本は、明治大正の日本人の暮し方、生き方を、民俗学的方法によって描き出した世相史です。この明治から大正にかけて日本に起こった社会的変化は空前絶後の凄まじいもので、開国以前の〈日本らしさ〉や〈独自の生活文化〉が変容し、忘れられてしまいました。

柳田國男(1857~1962)

以前の記事はキセル的読み方での記事でしたが、今回はこの本を通読して面白いと思ったことを挙げ連ねて解説してみようと思います。

過去記事 柳田國男著『明治大正史 世相篇』から〈世の中と自分を救う方法〉を知る

色彩感覚の変化

日本人はかつて、淡色系の曇った感じの色を普段着に用い、赤や青や黄といった派手な色は祭礼の時のみといったように、色の使い分けを行っていました。その中でも、白といった今では当たり前となった色でも普段は使用しない色でした。

「現在は台所の前掛けにまでも使われるようになったが、白は本来忌々しき色であった。日本では神祭りの衣か喪の服以外には、以前はこれを身に着けることはなかったのである。(P.29)」

神社の神主は〈白衣〉(はくい)といって、白の着物を着ています。紫、浅黄(あさぎ)といった袴が神職の身分によってありますが、どの神職でもお祭りや、研修の時に白い袴を着用することがあります。ニュートラルな袴といいますか、本当は白衣白袴、上から下まで白でもよいのです。

祓いの神事などに使用する浄衣(じょうえ)

しかし、大変汚れやすい色で、庶民が普段使用しなかったのも分かりますが、そもそも神聖視されている色です。やはり清潔、清浄な印象を受ける色。以前はお葬式も白を着用し、昭和の初めでも地方で残っていた習わしでした。黒を用いるようになったのは西洋に右にならえをした明治以降です。今や日本で葬式に白を着ていったら大変なことになります。

花を見る心境

「江戸時代で三百年前に椿の花が流行したということなども、とうてい今の者には想像しえられぬほどの大事件であった。椿もこの国の固有の木ではあったが、元来は山や神様の杜に咲くべきもので、人は季節の宗教的意味を考えることなしに、この花を眺めることはなかったのである。」(P.31)

日本人にとって桜は春の訪れを知らせる花ですが、今我々が慣れ親しんでいる〈ソメイヨシノ〉は戦後に爆発的な勢いで植樹され、最も一般的な桜となりましたが、それ以前は桜といえば〈ヤマザクラ〉でした。

サクラの「クラ」とは(くら)すなわち桜とは「穀物の神様が宿るところ」という意味で、穀物の神様の宿り木、神籬(ひもろぎ)だったと以前の記事で書いたことがあります。

かつては「山の神様」が里に降りてきて「田の神」として、農耕を見守ってくれるという信仰があり、庶民の習わしでは「山遊び」と称して春には山や海に「神様」をお迎えに行っていました。そこで神様と共に食べたり飲んだり宴会をして楽しみました。これが現在お花見という形に残っています。

山に咲く花は宗教的意味が必ず伴ったもので、それと切り離してただ単純に鑑賞して楽しむなどというのは、信仰の変容があったということでしょうか。花をひとつ取ってみても随分と日本人の感覚・感性が変わってきたことが分かります。

火に対する信仰

「家で食物を調理する清い火は、もとは荒神様の直轄する自在鍵の下にあったのである。その特別の保障ある製品でないと、これをたべて家人共同の肉体と化するに足らぬという信仰が、存外近いころまで村の人の心を暗々裡に支配していた。」(P.65)

古来、家の中心にあったのは〈火〉です。吉野ヶ里遺跡というところが佐賀県にありますが、そこに復元された弥生時代の掘っ立て柱の家では、家の人が火を囲んでいました。

冬は寒いですし、食べ物を調理してみんなで食べようとすると、自然とそうなります。火は人間に〈豊かな生活〉=〈文明〉を我々にもたらしてくれる神様でした。暖かい食べ物も土器も鉄器も、火が無ければ作れません。

各家庭で行われるお祭りを宅神祭といいますが、そのルーツがこの火に対する信仰であると考えられています。竈祭(かままつり)といって、かまどの神をまつる神事がありました。古く、朝廷では春と秋に行い。民間では年末に行うところが多かったそうです。

今でも神社に「荒神さんのお札をください」と多くの方がお札を受けにみえます。神宮大麻や氏神様のお札を祀る神棚とは別に、台所に神棚を設けて荒神様、もしくは火伏の神様である愛宕様をお祀りする人も今でも多くいらっしゃいます。井戸を埋める際には〈水神昇祭〉といって水の神様にお断りをするお祭りを行いますが、竈(かまど)を取り壊す際もお断りをするお祭りを行うといいます。

「江戸期多くの女訓の書を見ても、人に嫁ぐ者の最も慎むべき所行の一つとして、必ず小鍋立てをしてはならぬということが書いてある。」(P.66)

小鍋立て(こなべだて)は鍋料理のひとつ。文字通り小さな土鍋または鉄鍋で調理する、少人数向けの鍋料理の一種。江戸後期に座敷料理として流行した。

都市部では囲炉裏が一般的ではなく、強い火力で調理する大鍋の煮込み料理は座敷では不都合なため、火鉢や七輪で調理しやすいように小鍋が用いられた。

Wikipediaより

小鍋立てとは、本来かまどで使うべき火を、違う場所で使うことになります。つまり火を分けるということです。これはどういう意味を持つかといいますと、火は穢れを伝染するとして、何か忌むべき場合のみの行為でした。

神事を行う者が,けがれを忌んで別に鑽(き)り出した火を用いて食物を調理すること。また,服喪中の者や月経中の女性など,けがれがあるとされる者が,炊事の火を別にすること。べつび。

三省堂 大辞林より

小鍋立てを禁止した理由は、みだりに火を分けることを危ぶんだことによるだろうと推測されます。この考えでいくと、二世帯住宅はどうなるのだろうかなどと、色々考えてしまうわけですが、〈同じ釜の飯を食う〉というコトバがあるように、同じ火で調理したものを食べた者同士は絆が深まることは確かです。

世の中は変えることが出来ない
という考え

「人はとにかく非常に風景というものを心安く、かつ自由に楽しむことができるようになった。それはいずれもみな明治大正の世の、新しい産物と言ってよいのである。ただし欠点をしいて挙げるならば、これほど親密にわれわれの生活に織り込まれているものを、まだ多くの人は自分の物とまでは思っていないことである。

衣食や住宅を楽しくするように、これを人間の力で統御することが、できないもののごとく諦めている者がまだ多い。従うて何が新たに生まれた美しさで、何が失われた大切のものであるかを、ほんのわずかな人だけに考えてもらおうとしている。」(P.140より)

雨でぬかるんでいる道を歩かなければいけない。この困難をどう克服するか。西洋ならば〈石畳を敷く〉という選択をするとしたらば、〈下駄を履く〉という選択をとるのが日本人です。

触らぬ神に祟りなし」神である自然になるべくなら手を加えない方がいいという考え。それもいいかもしれませんが、「難しいことはお上に任せる」「面倒なことは誰かがやればいい」という日本人のよろしくない考えに繋がるかとも思えます。欧米では、自分たちの町は自分達でどうにかするという気概が強いように思えます。結局自分自身に密接に関わってくる問題だからです。

日本人にとっては社会とは〈神の領域〉ともいえる変え難いものなのかもしれません。〈個人が無い〉つまり〈個人としての考えを持たない〉日本人は近代という時代さえも迎えられずにここまできてしまったのか。

かつてダグラス・マッカーサーは、「ドイツ人は成熟した大人であるのに対して、日本人は12歳の子供のようである」といいました。つまり、自主自立した個人がないということです。

日本人が欧米人のように個人主義になるべきだとは思いません。ただ、聖徳太子の有名な「和を以て貴しとなす」というコトバのとおり、我々日本人は伝統を重視しつつも優れた考えや技術を巧みに取り込んで文化を育み、繁栄を続けてきました。

具体的にどうなるかは各々考えるとして、私は自主自立した個人の確立がより良い社会の実現へと繋がり、新たな日本の文化創造につながるのではないかと考えます。


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