天下になくてはならぬ人となるか、あってはならぬ人となれ ラストサムライ河井継之助の壮絶な生き方

人生を変えた本

私が24歳の時。

人生に深い影響を与えるような衝撃的な本との出会いがありました。

それは『峠』という司馬遼太郎さんの小説でした。

没後20年の節目の去年は、何かと話題にあがることの多かった司馬遼太郎さん。恐らく日本で一番有名な歴史小説家ではないでしょうか。多くの作品がテレビドラマになりました。

私は司馬さんの作品をそんなに沢山読んだ訳ではありませんが、この『峠』という作品に出会っただけでもう、この自分の人生を生きる上で十分というほど影響を受けてきましたし、気づけばこの小説の主人公と同じように考えて行動し生きて来ていました。

小説ですけれども、まさにバイブルとも呼べる本なのです。

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見知らぬ地の
テレビも無い部屋で本と向き合う

この本に出会ったのは今から11年前、六甲山系の有馬の温泉宿にて住み込みで働いていた時でした。

「これから何をして生きていけばいいのだろう」と真剣に悩んでいました。

「そうだ、知っている人が誰もいない場所でしばらく考えよう」とひらめいてしまい、縁もゆかりも無い関西の地にしばらく住み着くことになりました。

男子寮で当初テレビもない部屋でしたので旅館の女将さん的な人がその働いていた旅館が登場する小節『国盗り物語』を貸してくれました。その宿は今は潰れてしまいましたが、平安時代から続く老舗旅館でした。

かつて、新撰組副長の土方歳三の生涯を描いた『燃えよ剣』という作品を読んだことはありましたが、この作品を読んだとき「司馬遼太郎ってこんなに面白いんだな」とあらためて思ったものです。

布団敷きや料理の仕分けをしたりする中番(なかばん)のおじさんにその話をすると「『峠』は読んだことある?是非読んでほしい」と、いうようなことを言われ、本を貸してもらいました。

周りから「変人」と
見られていた河井継之助

河井継之助(1827〜1868) 長岡市立中央図書館所蔵品

物語は幕末、雪深い越後の国の長岡藩の武士、河井継之助が江戸へ私費で遊学したいと家老へ申し入れに行くところから始まります。

この申し出は今まで何度目も却下されているらしく、今でいえば東京の大学へ学びに行くといったことですが、この人は32歳という年齢。

5年前に遊学を許したところ江戸藩邸の役人がハラハラするような事件を多くしでかしてしまったらしく、継之助は藩でも変わり者で有名ときていました。

この願い出の際にも、藩の家老に向かって「無能」呼ばわりしたりします。

継之助のしつこさに家老も根負けして、とうとう江戸出府を許可してしまいます。

 

「武士の世が滅びようとしている」

「申しておきますが、私は流行の尊皇かぶれではござらぬ。流行はきらいだ」って佐幕でもない。

そういう純なにみずからはまってできる者は仕合わせなるかな。私はそうはいかぬ。藩は今後どうあるべきか、侍はいかにいくべきか、それのみががかりで夜もねむられぬ。

「藩外に出してもらいたい。藩外でものを考えたい」

 かの継之介めは物事を考えすぎるのであろう。あの男は、自分が人間に生まれたことさえ、まるでそれが自分の責任であるように血相をかえて考えている。武士にうまれたことについても考え、長岡藩士にうまれたことについても

                   (本文より抜粋)

 

とまあ、こんな感じで、はたから見ればかなり「めんどくさい人」なのですが、「なぜ自分はうまれてきたのか。多くの問題を抱える時代を生きる人間として、日本人としてどう生きてゆくべきなのか」などと悩んでいた当時の自分にとって心底共感できるといいますか、もう一人の自分をそこに見つけたような気持ちになりました。(振り返ると自分はとっても面倒くさい人に思えます)

家に帰ってきた継之助は妻に「五、六年、留守をせい。話とはそれだけだ」「信濃川をちょっとのぼったところだ」「江戸という村だ」と言いました。

このかわいそうなお嫁さんは16歳で河井家に同じ家中から輿入れし、夫からは子供扱いされろくに相手にもされてこなかったといいます。

陽明学徒だった継之助

結婚して間もない頃、その妻は物置で血のついた供物台を見つけます。義父に聞けば継之助が17歳の時、ニワトリを割いて血を台にそそいだのだといいます。もちろん動物虐待が目的ではありません。中国古代の儒者が天を祭る儀式をまねて王陽明を祭っていたらしいとのことでした。

ちなみに、「祭」という字は、「祭壇の上に切った肉を右手で捧げる」ことを表現した象形文字から出来たといいます。

出典 漢字辞典ーOK辞典 より

王陽明(1472~1529)とは明代の儒学者、思想家、高級官僚でありながら武将という、まさに文武両道の秀才で豪傑な人物でした。

王陽明(1472〜1529)

若いときには武術・詩・仏教の才能に秀でており、杓子定規な勉強をせず、辺境問題解決のために兵法を修めたりして28歳の時に科挙の試験に合格して官僚となり、高官として数々の軍事的業績を上げつつ儒学の新学説「陽明学」を打ち立てます。

変人というより狂人?

さて、江戸出府の願いでから戻った時から5日間、昼夜問わずとめどもなく降り続けた雪は城下を雪で覆い尽くしましたが、継之助はそれでも発ちました。

三国街道という道をとおって江戸を目指します。三国峠がこの街道最大の難所で、冬期にこの峠を越えることができればまず命を拾ったと見ていいということでした。この小説のタイトルである「峠」はこの三国峠のことなのでしょう。

  一種の狂人かもしれない」 なぜ春にしないのか 自分もそうおもう。狂人であることを、ひそかにみとめていた。

どころか、自分を狂人に仕立てようとしていた。陽明学とはひとを狂人にする。つねに人を行動へと駆りたてている。

この思想にあっては、つねに自分の主題を燃やしつつづけていなければならない。

この人間の世で、自分のいのちをどう使用するか、それを考えるのが陽明学的思考法であり、考えにたどりつけばそれをつねに燃やしつづけ、つねに行動し、世の危機をみれば断乎として行動しなければならぬという、つねに激しい電磁性を帯びたおそるべき思想であった。

(-自分が)

という気持ちがある。自分以外に、人の世を救えぬという孤独さと悲壮感が、この陽明主義にとりつかれた者の特徴であった。

自分のいのちを使える方法と場所を、自分が発見しなければならない。そのことがつねに継之介をいらだたせている。

                   (本文より抜粋)

 

三国峠の麓の宿場町までやってきた継之介は宿の番頭から、「2、3日もすれば難所の雪かきが済むからおよしなさい」と言われるのに頑として「いや、未明に発つ」と言い、いつ雪崩が起こってもおかしくない状況の、歩けば膝まで雪に没するような道を進みます。

途中出会った吉沢という浪人に「むりだ、浅瀬宿までひきかえせ」「なんのためにいそぐ」と質問されるも、「いそぐ心があるゆえ、いそぐ」と継之介。「話をしてくれ」と浪人。「わからん」と継之介。

しまいには継之介はこの浪人を完璧に無視してしまいます。

 

この男の知的宗旨である陽明学の学癖のせいか、つねに他人を無視し、自分の心をのみ対話の相手にえらぶ。

たとえば陽明学にあっては、山中の賊は破りやすく心中の賊はやぶりがたし、という。

継之助はたとえ山中で賊に出遭うことがあっても、賊の出現によって反応するわが心のうごきのみを注視し、ついでその心の命ずるところに耳を傾け、即座にその命令に従い、身を行動に移す。

賊という客体そのものは、継之助にあっては単なる自然物にすぎない。吉沢の存在も、自然物である。いわば、そのあたりの樹木や岩とかわらない。

                  (本文より抜粋) 

 

思い返せば私も陽明学的発想と行動で、周りに多大な迷惑をかけ振り回してきました。

今はしだいに冷静になって落ち着いてきましたが、その旅館で『峠』と出会い、働いていた温泉宿を後にした私は、とりあえず「やらねば!」思ったことを片っ端からやりました。

河井継之助さんは江戸での遊学の後に家老に抜擢されます。家老になるほどの家格ではなかったのですが、海外・国内の情勢に通じ未来を見通せる数少ない家臣であり、藩の難局を乗り切れる策を講じる人材は他にいないということで大抜擢でした。

己を信じひたすら自分の信じた道を突き進み、結果的には郷土の長岡は戊辰戦争で最も凄惨な戦場となり、藩士とその家と領民にひどく恨まれることとなります。

継之助は長岡藩にとっても、新政府軍にとっても「この世にあってはならぬ人」でした。

「天下になくてはならぬ人となるか、あってはならぬ人となれ」

これは継之介の最も有名な言葉です。

中途半端はいけない。己の信念に従い、命がけで生きよ!ということでしょう。私はこの言葉が好きです。

継之介は西洋式の兵法と、ガトリング砲をはじめとする最新の強力な武装で新政府軍を苦しめました。継之助を死亡後に墓を調べた新政府軍の士官が、遺骨の代わりに「石」が出てきた時は、「継之助が生きている!」と思い震え上がったといいます。

その墓標は恨まれた領民から鞭で打たれたといいます。

継之助は戦闘で重症を負い、死期を悟って下男に火葬のための火をおこさせます。その火を見つめながら逝ったといいます。「もっと薪をくべろ」が最後の言葉でした。

 





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