飛鳥時代に一度日本は占領されていた!?古代からあった朝鮮半島と中国大陸との外交問題

このブログでは時折、縄文時代から少しずつ、日本史を検証して「日本とは何か?」について考えています。

そのシリーズでいけば、前回は聖徳太子の登場までの歴史を見てきました。今回は太子が大きな影響を与えた飛鳥時代がどのような時代だった、そして実はその時代に日本が一時的に占領されていたということについて、考えてみたいと思います。

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聖徳太子の第二の使命

聖徳太子は第33代推古天皇の摂政となり、日本で初めての憲法である17条憲法や、冠位12階を定め、周辺諸国に引け劣らない国家づくりを推進しました。

画像 法隆寺聖霊院聖徳太子坐像

また、小野妹子をはじめとする遣隋使を派遣。現在世界最古の木造建築である法隆寺を建立し、仏教を日本に根付かせる礎を築きました。太子には、天皇を中心とする統一的な国家組織をつくるという使命が一つとしてあったのです。

二つ目の使命として、欽明天皇(539~571)以来の悲願であった任那(みまな)の回復でした。

日本はで言えば西暦369年、同盟国だった百済の要請に応じ朝鮮に出兵し新羅を攻め、百済も破り弁韓の地を平定したといいます。その後も百済・新羅を攻め破り、高句麗とも戦い、一時北部に攻め上る勢いを見せたといいます。

一時は「任那日本府」という出先機関まで設置されていたといわれていますが、史料によれば562年(欽明23)に任那は滅亡したとされています。「任那日本府」については戦後、政治的な理由でタブー視されてきたために、あまり知られていないと思います。

いずれにせよ、朝鮮半島の利権を奪回すべく597年新羅に使を派遣し、607年~603年にかけて出兵を試みますが、任那回復は実現困難でした。そこで太子は遣隋使を派遣によって大陸文化を取り込み、国力を充実させることを図ったのでした。

618年には隋が滅び、唐が建国されます。唐は中国を統一したばかりか東は朝鮮半島、西は中央アジア、北はシベリア、南はインドシナ半島にまでに及ぶ広い領土を持つ世界帝国となります。朝鮮半島においては唐は新羅と結び、660年には百済が、668年には高句麗が滅ぼされてしまいます。

侵略の脅威と大化の改新

唐の高句麗遠征の報は帰国した遣唐使や留学生によってもたらされ、国内では危機感が強まります。江戸時代末期に西欧列強の脅威を日本人が感じていたように、この時代においてもまさにそのような状況でした。

「このままでは日本が侵略されてしまうかもしれない」

こういった危機感から、天皇中心の強固な中央集権国家を作り上げる必要性がありました。時代はまさに繰り返されるわけです。

622年に聖徳太子が亡くなった後、蘇我氏が権勢を極めます。蘇我氏は朝廷の財力を掌握して、皇室の直轄地をも支配し、天皇家との姻戚関係を結び逆らう者は誰であろうと殺しました。643年には名声の高かった山背大兄王(聖徳太子の子)が蘇我入鹿によって討たれたことで、太子の一族は滅びます。

こうした蘇我氏の専横に対し、立ち上がったのが中大兄皇子と中臣鎌足であり、二人は蘇我入鹿を飛鳥板葺宮で行われる儀式にて暗殺します。645年乙巳の変(いっしのへん)です。中大兄皇子は後の天智天皇です。

『古今偉傑全身肖像』(1899年ごろ)

このように「蘇我氏は極悪非道」というイメージで歴史は語られてきましたが、最近の歴史教科書では、蘇我氏は唐の脅威に対して権力の集中化を目指していた人物とされています。その中で、蘇我氏は王族中心の集権国家を目指す中大兄皇子と中臣鎌足によって殺害されたといった内容になっています。

まるで立場が逆転しています。蘇我氏が『日本書紀』で必要以上に悪者として描かれた理由は王族側が蘇我氏を滅ぼしたことを正当化するためだと考えられています。乙巳の変の実際のところは強大な権力を持っていた蘇我氏に危惧を抱いた王族側が起こした政治クーデターだったと考えられます。

蘇我入鹿首塚と甘樫丘

何はともあれ、乙巳の変の後に樹立された新政権によって645年から649年にかけて次々と改革が行われ中央官制が整備されます。世にいう大化の改新です。「大化」という日本で初めての年号が定められました。中大兄皇子は孝德天皇の皇太子として政務にあたりました。

その過程において中大兄皇子によって政敵は次々に粛清さていきます。右大臣だった蘇我倉山田石川麻呂は謀反の企てにより兵を差し向けられ自害に追い込まれ、同じく蘇我系の古人大兄皇子は処刑されます。

孝德天皇も中大兄皇子との対立から政治の舞台から疎外され、失意のうちに崩御し、皇子である有間皇子も謀反のかどで処刑されてしまいます。中大兄皇子の容赦のない様は、血塗られた王と称された雄略天皇にも迫るものがあります。

白村江の戦い

そうこうしているうちに、660年とうとう唐と新羅の連合軍が百済を攻め滅ぼします。

永年の同盟国であった百済の滅亡は非常にマズイものでした。当時人質として日本に連れて来られていた百済の王子である扶余豊璋(ふよほうしょう)は、王に即位し百済の復興を目指し、救援を日本に求めます。

これ以上唐の勢力が朝鮮半島を南下してくることは日本にとって大変な脅威であり、軍勢を送ることで再び朝鮮半島の利権も取り戻せるかもしれないとの目論みもあり、中大兄皇子は三万の軍勢百済救援を送りました。

663年白村江(はくすきのえ)の戦いです。結果的に日本をさらなる危機に陥れる判断となります。語呂合わせで66(ムロン)3(ザンパイ)で覚えた人も多いでしょう。白村江では唐軍の水軍と激突し、日本は1000隻の船のうち400隻を失う大敗北を喫します。これにより百済は完全に滅びました。

中大兄皇子は唐と新羅の連合軍侵攻に備え、大宰府を内陸に移し、水城という土塁や、大野城・基肄城といった山城を築き、筑紫・壱岐・対馬に防人を設置。さらに都を飛鳥から近江に移して防衛力を強化します。

 

そして、皇子は668年に漸く天皇に即位し天智天皇となり、外交によって唐との関係修復に努めますが、しだいに唐と新羅が争いを始めたため日本が侵略される恐れはなくなったといます。

なんともめでたいことです。

実は日本は占領されていたという説

日本史学者の中村修也氏によれば、戦後の日本がGHQの占領下にあったように、白村江の戦いに敗れた倭国は一時、唐の占領下にあったとする説を提唱されています。(参考『天智朝と東アジア−唐の支配から律令国家へ』/NHKブックス)この説は昔からある説です。

日本書記の記述によれば、671年に沙門道久、筑紫君薩野馬、韓嶋勝娑婆、布師首磐の四人が唐から来日。唐国の使人郭務悰等600人、送使沙宅孫登等1400人、総計2000人が船47隻に乗り、比知島に停泊していたといいます。この数の多さから進駐軍だったのではないかと考えられていたりします。

日本書記はその事実を隠そうとしていたようですが、天智6年(667)11月乙丑条に、大宰府のことを「筑紫都督府」と唐の官名で記述してしまうというミスが指摘されています。

現在も大宰府政庁跡には「都督府古趾」と刻まれた石碑が立っています。

大宰府政庁跡の中央に建つ石碑

10年ほど前にこれについて郷土史家の方に説明を受けた際、「都督府とは占領を意味する言葉で、なぜこの言葉が使用されているのか分からない」とのことでした。これはやはり日本書記に記述を基に建てられたものでしょう。(この石碑はあまり古いものではありません)

「九州倭国」と「大和朝廷(天智―藤原系)」は別の勢力という見方もあるようです。

いずれにせよ、歴史認識とは簡単に覆ることはありません。





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