日本の近代化に思想的刺激を与えた「陽明学」の祖 王陽明に迫る

陽明学との出会い

以前、『峠』という小説についていくつか記事を書きました。

私は、この小説に描かれている河井継之介という実在した人物の思想や行動に感化され、これをバイブルとしてきたのですが、彼を突き動かす根底にある思想が「陽明学」でした。

河井継之介(1827〜1868)

この学問は中国が明の時代(1368~1644)だった中頃の、成化8年(1472)に生まれた王陽明(おうようめい)によって開かれた学問です。

王陽明(1368~1644)

当時は自国以外の世界にほとんど関心を持たず、東洋一の大国だった明国。ここで生まれた陽明学は、日本の幕末期の武士階級に影響を及ぼします。吉田松陰、高杉晋作、せごどんこと西郷隆盛といった人物もその影響を受け、倒幕運動から新政府樹立に動きます。

西郷隆盛(1828〜1877)

天保8年に起こった大塩の乱で有名な大塩平八郎は、大坂町奉行所の与力でしたが、実は陽明学者でした。

大塩平八郎(1793〜1837)

このように革命運動に身を挺する人が多い一方で、幕末の備中松山藩の破綻しかけた藩財政を見事立て直し、河井継之介の師匠である山田方谷のような人物もいます。

第一国立銀行(現みずほ銀行)や東京証券取引所などを設立経営にかかわった渋沢栄一、三菱財閥の創設者である岩崎弥太郎のように、明治の財界を牽引するような人物も陽明学に影響を受けたといわれます。

戦後においては、自民党の歴代総裁の指南役を務めた安岡正篤は陽明学者でしたし、晩年の三島由紀夫が傾倒したのが陽明学でした。

こうしてみると、陽明学は、実に長い間に渡って日本に影響を及ぼしてきたわりには、日本人はそれについて詳しく知らないのではないかと思います。私も陽明学について詳しく学んだことがありません。勉強しようと思った矢先に、大学で神道の勉強を始めたからです。

しかし、神社に奉職した後に神職の後輩が陽明学に関する書物を沢山くれました。後輩は大学時代に中国の思想を専攻していたそうです。なので、これから勉強がてら陽明学に関する記事を書いて行こうかと思います。



王陽明について

王陽明は現在、中国の浙江省余姚県というところで、成化8年(1472)に竜山公(りゅうざんこう)という高級官僚の子息として生まれます。幼い頃から優れた知性に恵まれ、10歳にして即興で詩を作るようになります。

塾師に「何が一番大切なことですか」と質問し、塾師が「学問をして科挙(官僚の試験)に合格すること」との答えに対し、「一番大切なことは、書を読んで聖賢(孔子や孟子のような聖人)を学ぶことだと思います」と意見を述べたと伝わっています。立身出世よりも理想主義なものの考え方を幼い時から持っていたようです。

一方で、陽明は戦争ごっこの大好きなガキ大将という側面もありました。後漢時代の名将 馬伏波(ばふくは)に強いあこがれを抱き、塾を抜け出しては近所の子供達と戦争ごっこに興じたようですが、父親はそれを快く思わなかったようです。

中国で武人は「崇文軽武」といって社会的地位が低く、戦で世を治めるのは徳や器量が無いためだと考えられていました。しかし陽明に関しては武芸や軍略に長け、その上学者でもありました。

日本では「文武両道」といって両方大事にされてきましたから、その点で日本の武士道と相通じる部分が大いにあったのだと考えられます。陽明学が日本人に受け入れられたのにも頷けます。

陽明が15歳の時、北京の西方北方にある軍事上重要な拠点である居庸関、山海関といったところへ行ったっきり一月ほど帰ってこない事件がありました。当時干魃があって盗賊が暴れ回って治安が乱れており、そのことが気がかりで仕方なく、何とかせねばと思った陽明は、帰宅するなり父親に「朝廷に嘆願して一万の軍勢を借り、賊徒どもを討ち、国の内外を平定したい」と申し入れ、「死に急ぐでない」とひどく叱られたそうです。

河井継之介が主人公の小説『峠』に「自分以外に、人の世を救えぬという孤独と悲壮感が、この陽明主義者にとりつかれた者の特徴であった」と、ありましたように、このような「自分意外に何がある」という考えが幕末の武士にもありました。

陽明が15歳から34歳頃までの約20年間を「五溺(ごでき)」時代と呼ばれ、様々なことにのめり込みます。勧善懲悪をモットーとする任侠、武芸や兵法の騎射、文学である詩文、不老長寿を求め仙人を目指す神仙(道教)、そして仏教にハマってしまいます。

挙げ句の果てには、あれこれ悩んで迷ってしまいノイローゼになったりという、精神遍歴の時期でした。

私も、この世の真理だとか、どうしたらこの世を救えるのか、自分は何をしたらよいのかを15歳から最近まで悩みもがき続けてきました。こういった部分にも王陽明と共通する部分といいますか、そこに感銘を受け、勇気を貰って今日まで生きてきました。

そんな陽明でしたが、28歳でようやく三度目の科挙の試験に合格します。日本でいえば霞ヶ関の官僚になるようなものでしょうか。色々あってもやはりエリートだった陽明。

墳墓増築の現場監督、司法官といった役職をこなしつつ、先ほど述べたような詩文や神仙道、仏教の習得に努めます。

やがて陽明洞という場所に修行場を設けると、ある日悟りを開き、様々な神秘体験を経験します。その後陽明は「仙道は真の道では無い」と悟り修行から離れます。その後仏教の修行に入りますが、仏教の人情を無視する思想は、中国の道徳である儒教の考えと相反するという葛藤から、良知という陽明学の情愛を肯定する観念に辿り着きます。

多くの遍歴を経て最終的には儒学に落ち着くのですが、当時の主流であった朱子学と対立する新しい儒学を打ち立てます。これこそ陽明学です。

陽明33歳の頃、主考官という試験問題を考えたりする職に就任。34歳「人は必ず聖人になるという志を立てるべき」と主張をはじめ、陽明のもとにしだいに門人が集まります。

しかしその後は受難の日々が待ち受けていました。正義感の強さから、時の権力者に盾突いてしまった陽明は投獄され、杖で打たれる過酷な刑を受け、龍場というところへ左遷、配流されます。しかも重い病をも患います。陽明はこの頃から特に病気がちで、その後生涯を通じ、治ったり患ったりを繰り返していきます。

陽明はこの僻地にて、現地民に家の建て方や学問を教えたといいます。この地にて日夜正坐し道を求め、陽明学の心学的な部分を深め、発展させたといいます。この地は陽明学発祥の地といわれ、学問普及のための様々な施設を整備します。龍場に来て三年目に「知行合一」説を提唱。陽明学の有名な教えとなりました。

先生曰     「先生が仰(おっしゃ)いました」

某嘗説     「私が以前に言ったことだが」

知是行的主意  「知は行の目的であり」

行是知的功夫  「行は知の実際の修業である」

知是行之始   「知は行の始めであり」

行是知之成   「行は知の完成である」

                      (『伝習録』) 

その翌年の正徳5年(1510)漸く許された陽明は中央へ復帰します。翌年には官禄を検討する主任に抜擢され、門人も増えていきました。

正徳11年(1516)年には今でいう検察庁長官のような高職に就き、ここから武人としての王陽明の力が発揮されます。これまで学んできた兵法を用いて盗賊などの反乱鎮圧に数々の武功を立てます。

「山中の賊を破るは易く心中の賊を破るは難し」という有名な言葉があります。

《王陽明の「与楊仕徳薛尚誠書」から》山中に立てこもっている賊を討伐するのはやさしいが、心の中の邪念に打ち勝つことはむずかしい。自分の心を律することは困難であるというたとえ。

                 デジタル大辞泉の解説より

 

陽明は、敵を攻める際にも陽明学で培ってきた心術を基盤としていました。すべては自身の心にあり、その主体性の確立に重きを置きました。その後陽明は、自らの学問である陽明学を深めつつ、門人に伝え、生涯を武将として任務に当たりました。

嘉靖6年(1527)広西で起こった反乱に討伐命令を受け、辞退を申し出るも受け入れられず、病気をおして討伐軍を指揮しこれを平定。帰還命令が出ない中、死期を悟り、独断で帰郷を目指すもその帰途で病に倒れ、57歳でその生涯を閉じます。





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