日本人と陽明学の精神 岡潔先生によれば、もともと昔から日本にあったもの!

岡潔先生

その昔、岡潔という数学者がおられました。

岡潔(おかきよし)1901-1978

1901年、大阪市生まれ。1922年に京都帝国大学物理学科入学、数学科に転科し、同大を卒業。1929年にフランスに留学し、帰国後、広島文理科大学助教授に。職を辞してからは、独自の数学研究に没入し「多変数解析関数論」の分野における難題を解決した。その功績は大きく、世界的な数学者として認識されている。1949年、奈良女子大学教授に就任。定年退職後、1969年に京都産業大学教授に就任し、最晩年まで教壇に立った。1960年、文化勲章受章。1963年、毎日出版文化賞受賞。1973年、勲一等瑞宝章受章。1978年没。(www.shinchosha.co.jpより)

最近テレビドラマで岡潔先生の生涯を描いた作品が放映されました。佐々木蔵之介さんがとても自然に岡先生を演じておられ、楽しく視聴させていただきました。再放送かDVDになればもう一度観たいですね。

数学の世界的権威だった岡潔先生。一方で「このままでは、150年もすれば日本は滅んでしまう」と、世の中に警鐘を鳴らすべく多くの著作を残され、思想家としても評価されたお方でした。

昭和37年(1962)から連載された『春宵十話』という随筆に、当時の日本社会の風潮について以下のように述べておられます。

また、どうも直観を大事にしなくなっている。直観というものは直観にはおわらないもので、直観からそのまま実践が出てくることがある。直観から実践へというと、すぐに陽明学のようなものを想定するかもしれないが、ああいうものは中国からきて日本化したのではなく、もともと昔から日本にあったものなのである。

これは正に前回記事でふれました、陽明学の「知行合一」のことをいっているのではないかと思います。

前回、陽明学の開祖である、王陽明の生涯について記事を書きました。王陽明は晩年、専ら武将として戦場を駆け巡り、自身の学問を確立していきました。

スポンサーリンク



 

陽明学的な人物? 
北畠親房

そのような人物が、確か日本にいたなと思い浮かびました。それは北畠親房というお方です。

北畠親房(1293~1354)

鎌倉末期から南北朝にかけての時代の公卿でしたが、このお方も晩年、ほとんど戦をしておられたようです。

村上源氏の出身で後醍醐天皇信任を受け、極官(本来の官位の限界)を超え大納言に任ぜられるなど、やがて南朝の最高顧問として指導を行うほどに出世します。

あの足利尊氏を一度破ったことのあるという強者でした。後村上天皇のために、南朝の正統性を述べた歴史書である『神皇正統記』が北畠親房の著書で有名ですが、実はこの他にも数多くの著書があり、そのほとんどが戦争中に書いたそうです。

もちろん豊富な資料を携えている訳もなく、『神皇正統記』なんかはほとんど何も見ずに書いたといわれています。親房は『孟子』の革命論を取り入れることで政治思想を形成し、日本史上おそらく初めてであろう、明確な革命思想を打ち出されます。

『神皇正統記』では、陽成天皇の条にて、漢の摂政がかつて不徳な天子を廃したことを前例とし、藤原基経が不徳な陽成天皇を廃したことを高く評価しているのです。

それでいえば、ロシア革命を指導しソビエト連邦という国家を作り上げた、ウラジミール・レーニンは常に逃げまわるような生活で、もちろん本を持ち歩くことはできなかったそうです。

ウラジミール・レーニン(1870〜1924)

図書館の本を主に利用し、緻密な読書ノートを作成し、そのノートさえあれば正確なデータが復元できるように工夫していたといいます。(参考『読書の技法』著/佐藤優/東洋経済

人は何かしらのプレッシャーがあってこそ工夫をしたり、現状を打開しようと努力して良いものを生み出すことができるものです。

話が少し逸れてしまいましたが、岡潔によれば、陽明学のような精神のありかたは、もともと日本にあったということです。それならば、陽明学が日本に伝わる豊臣政権時以前にも、北畠親房のような、なんだか王陽明と精神性が似ているなと、思える人物が存在していたのも当然です。

天保の飢饉をきっかけに、役人の不正や汚職に憤り、兵を挙げた大塩平八郎。倒幕を掲げ、明治維新を押し進めた薩摩・長州の武士。憲法改正を訴え自衛隊にクーデターを促し、切腹して果てた作家の三島由紀夫。陽明学信奉者がすべてそうなるのではないにせよ、革命運動に身を挺する人が多くいます。

代表的な日本民族の中核の人
菟道稚郎子

わが身を顧みず、命を捨てる覚悟のもとに行動できる人のことを、岡先生は「日本民族の中核の人」と呼び、その典型として菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)を挙げています。(『日本の国という水槽の水の入れ替え方』/成甲書房

稚郎子は、第15代応神天皇の皇子の末に生まれ、百済から日本に来日し、『論語』を日本に伝えたという、王仁博士(わにはかせ)から儒教の思想を受け、聖賢の学問に非常に長けておられたそうです。父の応神天皇は、稚郎子を天皇にすればよく国が治まるだろうとお考えになりますが、それを決定する前にお崩(かく)れになりました。

菟道稚郎子

民の望みが一点に稚郎子に集まっていました。しかし、稚郎子は聖賢の教えである長男相続説を守っておられたので、長子である仁徳天皇が皇位を継ぐべきであると考えていました。

稚郎子は自身が天皇に即位する情勢を変えることが出来ないと見るや否や、即座に御自害なされたのです。「なんという崇高さだろう」と岡先生は感慨を示しています。この行動から、日本人の愛する桜の花のような潔さが感じられます。

岡先生に言わせれば、武士道精神だとか、大和魂を自分と思っている人は「準中核」の人だそうです。まだ少し「自我」というものが残っている状態と思われます。日本民族は、先の戦争の見事な戦いぶりからみて相当数の「準中核」の人がいて、まずこの人達の眠りを覚まして、人類を自滅から救わなければならないと岡先生はおっしゃいます。

私は神風特攻隊に志願して出撃していくような人たちは、中核に近い人々だったと思います。

滅私奉公に生きてきた
多くの日本人を忘れるな

極端な例を挙げましたが、多かれ少なかれ、程度の差はあれ、我々国民は社会に対し身を捧げています。

世の中には「士」と名の付く職業が多く存在します。例えば弁護士、建築士、電気工事士、気象予報士、運転士、消防士、保育士、これらは専門資格職業で士業(しぎょう)と呼ばれます。医師、看護師、薬剤師など「師」とつく場合もあります。

「士」に人偏が付くと「仕」つかえるという言葉になり、人に仕えるということになります。日本人は仕事を通して「公」のために働いているという意識が根底にあるのではないかと思います。

作家の司馬遼太郎さんは、かつて鎌倉時代の武士の気風である、私利私欲を恥とする「名こそ惜しけれ」という精神に注目し、やがてそれが武家政権の時代に庶民の間においても育まれ、その精神が明治以降の急速な近代化を実現させ、日本の発展の礎になったといいます。

明治のはじめに日本を訪れて旅をしたイギリスの旅行家のイザベラ・バードは、女性一人でも安心して旅ができるほど治安が良く、人々は親切で道徳心が高いと評しました。

バードは旅行中に落し物をした際、馬子(うまを引いて荷物を運ぶ職業)が1里も戻って探してきてくれ、しかも謝礼を受け取らなかったということを記しています。

私は6年ほど前に財布を落としましたが親切な人が届けてくださり、中身はそのままで戻ってきました。お礼が言いたかったのですが、謝礼を貰う権利も放棄されたようで、お名前も分かりませんでした。

日本の多くはこのように「自尊心に基づいて行動をとる」人たちです。正直に一生懸命働く人たちによってこの国は支えられています。そういった意味では日本はまだ侍の国なのかもしれません。

公文書偽造を始め、重大な国家犯罪に揺れる現在の日本。

今こそ、陽明学は日本人とは何かを知る上で、重要な思想なのではないかと思います。




コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*