スサノオノミコトの荒ぶる力の系譜 神話から歴史へと受け継がれるチカラ

このブログでは最近「暴力」に関する記事が続いているように思います。暴力は理不尽に人を傷つける行為ですから、私は嫌いですし、出来るだけ無くなって欲しいと日々祈っては生きています。

こういった暴力と少し違うのですが、「荒ぶる力」という働きが、この世の中にはあります。このチカラは遠く神話の時代に始まり、歴史を動かして来ました。

今回から3回に渡りまして、この力の継承者の系譜を追って、「荒ぶる力」について考えて行きたいと思います。

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時代の中で繰り返す神話

日本神話の話はいつの間にか歴史へと変わります。日本という国は、
祭祀や農耕といった様々な文化・思想を神道、すなわち「神ながらの道のままに」神話の時代から先祖代々に渡って伝えてきました。

神話の出来事は我々の過去の歴史に大きな影響を与えてきました。神話で示されたあるパターンが、その後繰り返す歴史の中で螺旋を描くようにして度々表れてきました。今後もそれは変わることはないでしょう。具体的にそれはどういうことなのでしょうか。

荒ぶる力の系譜の始まり

その日本神話の中で特に、荒ぶる力、荒び、荒々しいと色々と表現がありますが、そのような嵐のように凄まじい力を発揮された神様がいました。皆様もご存知の通り、それはスサノオノミコト(素戔嗚尊・須佐之男命)という神様でした。

スサノオノミコトは、天上の世界である高天原にて、天照大御神の神殿に糞をまき散らしたり、神事でお供えするお米を育てる斎田の畔を壊し、終いには神様へ捧げる織物を織る建物に皮を剥いだ馬を投げ込んで女性一人を死亡させてしまいます。

その傍若無で乱暴な振る舞いは、今でいうテロリストとも呼べる厄介なものでした。その後、高天原を追放されたスサノオは「荒くれ者」から一転し、その荒ぶる力を持ってヤマタノオロチを退治し、生贄にされるクシナダヒメを救い、地上世界で「英雄」となります。しかしその後は「根の堅州国(ねのかたすくに)」という異世界へと身を隠します。

スサノオノミコト 新生古事記伝より

そのスサノオの力を継承したのがその子孫であるオオクニヌシノミコトでした。オオクニヌシは兄である八十神(ヤソガミ)に何度か殺害されながらも、祖父であるスサノオのもとでの試練をへて、スサノオの太刀・弓矢と託宣に用いる琴、娘のスセリヒメを奪って地上に戻ります。

その後、オオクニヌシは、スサノオの武力・呪力をもって兄たちを駆逐し、八千矛神(ヤチホコノカミ)と呼ばれたように、強力な軍事力を持って国造りを行います。

オオクニヌシ 新生古事記伝より

その後は天孫降臨に際し、天照大御神の子孫に国譲りをし、スサノオと同様に「多く曲がり込んだ片隅の国(幽界)」という異世界に身を隠します。

このように、荒ぶる力を継承する神様は地上世界に大きな功績を残しても、その後は目に見えない違う世界に身を隠します。

以後、スサノオの「荒ぶる力」はその後、時代の流れの中で、多くの英雄に継承されていきます。

日本史上最大の英雄ヤマトタケルノミコト

ヤマトタケルは第12代景行天皇の80人の御子の中の三番目に数えられる御子です。ヤマトタケルは子供の頃、朝食に顔を出さない兄を、朝、便所に入るところを待ち伏せし、捕まえて掴み潰し、手足を引きもいで薦に包んで投げるという凄まじい暴虐性を持つお方でした。父景行天皇はヤマトタケルのその猛々しい性格に恐れ入り、九州に熊襲建(クマソタケル)という反逆者を征伐するように命じられ征西の旅に出ます。

九州の熊襲建、出雲の出雲建と次々と残虐な手口で処理し、ヤマトタケルは大和に戻ります。しかし、帰って間もなく東の方の十二国の荒ぶる神たちと、従わない者を平定するように、父景行天皇に命じられます。父はとにかくタケルの力を脅威に感じ、出来るだけ遠ざけ、出来れば戻ってきて欲しくないと思っていたのでした。

ヤマトタケルは父に疎まれていることに対する悲しみを抱えながらも、東征の旅で奮戦しますが「伊吹の山の神」の降らせた雹(ひょう)と大雨に遭い正気を失ってしまい、身体に大きなダメージを受け、大和への帰途を試みます。

「倭は 国のまほろば  (ヤマトは最も優れた国) たたなづく 青垣   (周囲を巡る青々とした垣のような) 山隠れる 倭しうるはし (山に囲まれたヤマトは実に美しい)」

という有名な歌を残し、程なくしてこの世を去ります。

荒ぶる力を持ってして、世の中を平定した神様や英雄は、このように非業(寿命を待たずに思いがけない形)の最後を遂げることが多いのです。

雄略天皇と武烈天皇

次に「荒ぶる力」を顕著に発揮されたお方として、ヤマトタケルの子孫である雄略天皇と武烈天皇が挙げられるかと思います。ともに「大悪天皇」と誹謗される天皇です。

第21代雄略天皇はヤマトタケルの直系にして5代後の子孫にあたります。雄略天皇が即位するきっかけとなったのは、先代の安康天皇が義理の息子であった幼年の眉輪王(まよわのおう)に暗殺されることに始まります。

この衝撃的な事件に際し雄略天皇は、まず兄である八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)が事件になんらかの関与があったと疑って殺害。次にもう一人の兄である坂合黒彦皇子(さかあいくろひこのみこ)が眉輪王とともに葛城円大臣(かずらきのつぶらおおきみ)の屋敷に逃げ込むと、ただちに包囲し、嘆願の声にも耳を貸さずに屋敷に火をかけて、三人もろとも焼き殺してしまいました。

さらに有力な王位継承者であった従兄弟にあたる市辺押磐皇子(いちのべのおしわのみこ)を狩りに誘ってだまし討ちにし、その弟である御馬皇子(みまのみこ)をも始末して、三ヶ月後にようやく天皇として即位します。

さすが、ご先祖のヤマトタケルノミコトを彷彿とさせる凶暴性ですが、これほどまでに自らの手を血で濡らした天皇は他にはみられません。しかも兄弟、従兄弟と身内のほぼ全てを手にかけてしまったがために、後に皇統の存続が危ぶまれる危機を招いてしまいました。

葛城山で狩りをする雄略天皇 

雄略天皇の娘である春日大娘皇女を母に持つ第25代の武烈天皇は(つまり雄略天皇の孫)、『日本書紀』には暴虐の大君と呼ばれる如く、多くの残虐行為が記されています。例をいくつか挙げますと、「妊婦の腹を裂いて赤子を見た」「人の生爪を剥いで素手で芋を掘らせた」「人に木登りをさせて矢で射殺した」など、他にも恐ろしい行いが記されていますが省きます。かなりショッキングな残虐行為に驚きます。

武烈天皇は贅沢と酒池肉林に溺れて政治を行わず、子孫も残さなかったので、第16代から続く継嗣は絶えてしまい、第15代応神天皇の5世の子孫である継体天皇が第26代天皇として即位することとなりました。

荒ぶる力は正しく発揮すれば世の中に平和と安定をもたらしますが、時として破滅をもたらす恐ろしい力です。




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