「荒ぶる力」を制御する象徴=「草薙の剣」その歴史をさかのぼってみる

豪雨災害

前回から、スサノオノミコトに始まる「荒ぶる力」の系譜を追っています。

「荒ぶる力」とは、制御できない程の凄まじいエネルギーです。そのイメージを伝えるべく、前回のアイキャッチ画像に台風の目の写真を使用致したところ、ちょうど一週間前に西日本豪雨災害が起こってしまいました。

私が住んでいる九州北部の都市も家屋や店舗が水没するなどの被害がありました。

被災され、命を落とされた方々に対しまして、その御霊が安らかにでありますようお祈りしますとともに、家族を失った方、家屋が損壊された方々に対しましてお見舞い申し上げます。

どんなに文明や技術が進化しても、自然の力に対して我々人間の力は本当に無力と言わざるを得ません。前回お話ししましたスサノオノミコトのヤマタノオロチ退治の神話ですが、実は治水工事の話ではなかったのではないかという説もあります。

川が氾濫する自然の猛威を、八つの頭を持つ大蛇に例え、スサノオノミコトがそれを治水によって制御したというのです。

制御するのが難しいほどの凄まじい力=「荒ぶる力」を制御する者こそ真の英雄なのでしょう。戦国武将の武田信玄も治水工事によって領民の生活を守り、国力を高めていったといいます。

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全てに備わっている「荒ぶる力」

このような「荒ぶる力」は全ての人に備わっています。魂は荒魂(勇)、和魂(親)、幸魂(愛)、奇魂(智)、という四つの魂の性質から成ると神道では考えられてきました。この考えを「一霊四魂」(いちれいしこん)といいます。

あの心のお優しいアマテラスでさえ、スサノオが高天原へやって来た際には武装をして待ち構えました。荒ぶる力は「荒御魂」(あらみたま)として同一の神様にあっても、神社の中で分けて別に祀られていることもあります。伊勢の神宮の内宮には天照大御神様の荒御魂をお祀りする「荒祭宮」(あらまつりのみや)が第一の別宮として設けられています。

荒御魂とは、事にあたって動きを示す荒く猛々しい時のタマシイのことをいいます。時に、世を乱す原因となる力でありますが、戦乱を解決するのにも必要な力です。

悲劇のヒーロー 源義経

政変が起こる際には武力行使を伴うことがほとんどですので、日本の歴史上多くの人物が「荒ぶる力」を発揮してきたことと思いますが、その役割を担う人の多くは非業の最後を遂げる場合がほとんどです。ヤマトタケルもそうでしたが、類稀なる武才を持つと、時の為政者から疎まれる存在となります。

貴族から武士の世の中へ、平安時代から鎌倉時代へと移行する源平合戦において、快進撃の活躍で平家討滅の最大の功労者となったが源義経です。

源 義経

義経はご存知の通り、鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟ですが、義経は大人になるまで兄である頼朝に会ったことがありませんでした。二人の兄弟の父である源義朝が平治の乱(平治元年/1159)で平清盛に敗れて落命し、兄の頼朝は伊豆に流され、弟の義経は京都の鞍馬寺に預けられます。二人の兄弟は平家打倒を心に誓いながら20年もの月日を重ね、頼朝は1180(治承4年)に伊豆で挙兵。それに呼応し兄のもとに駆け付けた義経は兄に軍勢の指揮を任され、大快進撃の活躍をみせます。

1184(寿永3年)一の谷の戦いおいて精鋭70騎馬を率いて断崖絶壁の崖を駆け下りて奇襲攻撃を仕掛け、平氏軍に勝利。

1185(寿永4年)屋島の戦い(四国・香川)では嵐の中、油断している平氏軍の背後に回って奇襲し勝利。

1185(寿永4年)海戦となった壇の浦の戦いついに、平氏を滅亡に追いやります。

大活躍をみせた義経ですが、兄頼朝は義経を家臣と同等に扱います。多くの家臣の力で勢力を形成する源氏軍にあって、活躍し過ぎた弟をひいきすることはできません。もともと武家の合戦は、名乗りを上げるという儀礼を行った後、正式に戦がはじまるといったしきたりがあったようですが、義経は勝てばいいのだと言わんばかりに奇襲攻撃によって武功を立ててきました。

他の家臣にとってそのような義経の行為は許し難く、不満が積もったことでしょう。さらに義経は兄に許しを得ずして勝手に後白河法皇より貴族の位を貰い受けます。義経にとっては良かれと思っての行動だったのかもしれませんが、兄頼朝にとってみればそれは源氏の結束を乱す反逆と捉えられました。

義経の持ち味は「型破り」なところにあるのですが、世間の常識から逸脱した行動の積み重ねは軋轢を生み、兄頼朝から「鎌倉に戻れば死が待つ、腰越という手前の場所より先は近づくな」という警告を受けてしまいます。

兄を慕う義経にとってそれは衝撃的な出来事であったと思います。忠誠心を示す嘆願書を書いて送りますがもはや兄には聞き入れてもらえません。

源氏軍に捕えられそうになり、青年時代に身を寄せていた平泉の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)を頼ります。しかし、藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の子・泰衡(やすひら)は義経がいると自分に危害が及ぶと考え、泰衡(やすひら)は、父・秀衡(ひでひら)が亡くなると、義経を襲います。
追いつめられた義経は妻子とともには自害し31歳という若さで、波乱に満ちた生涯を閉じます。

判官贔屓(はんがんびいき)という言葉がありますが、判官とは義経の官位に由来し、誰もが義経が不憫だ、可哀想だという感情を抱くように、不遇な立場にある者を応援したくなる気持ちを表す言葉です。日本人は情に流されやすい性質がありますので、そういった面でも義経は人気があるのだと思います。

失われた草薙の剣

頼朝が義経に対して最も許せないと思った失態は、三種の神器の一つである「草薙の剣」の回収に失敗したことです。

『愚管抄』によれば壇ノ浦合戦の折、当時8歳の安徳天皇を抱き、平時子(平清盛の妻で天皇の祖母にあたる)が宝剣と神璽と共に入水。皇位の証でもある剣璽の確保が壇ノ浦で平氏を滅ぼすことよりも重要と考えていた頼朝にとって大変ショックな出来事でした。

海底に沈んだとされる宝剣と神璽は後に捜索され、神璽のみ回収。宝剣だけは見つかりませんでした。

もっとも、これらの神器は形代といっていわゆるレプリカであり、本物は熱田神宮にあり、宝鏡は伊勢の神宮にあります。神璽のみが宮中にあったのではないかと考えられます。ちなみに、頼朝の母は熱田神宮の大宮司である藤原季範の娘、由良御前であり、神宮の西側にあった邸宅で生まれ育ったといいます。

草薙の剣は、スサノオがヤマタノオロチを退治した際にその尻尾から取り出したことで初めて発見されます。それが高天原のアマテラスに献上され、天孫降臨の際にニニギに三種の神器の一つとして授けられます。

第10代崇神天皇の時、豊鍬入姫命により宮中から出され、後に倭姫命に引き継がれます。第12代景行天皇の時、東征に向かうヤマトタケルに授けられます。ヤマトタケルが敵の放った火に囲まれた際に草を薙ぎ払って難を逃れたのでこの名がついたといいます。

どうやら天叢雲剣が正式名称のようです。

このように天皇の武力を象徴する神器である宝剣を、武家の棟梁である頼朝は大変重要視していましたから、それを行方不明にしてしまった弟を、許すことができなかったのでしょうか。頼朝は義経を死に追いやり失いますが、頼朝にとって宝剣は弟である義経に他ならなかったのではないでしょうか。





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