織田信長 神話から歴史へと受け継がれる荒ぶる力の継承者

戦国時代に終止符を打つべく
全国統一事業を強力に推し進めた信長

応仁元年(1467)に始まった、いわゆる戦国時代ですが、下位の者が上位の者を攻め滅ぼす「下克上」が横行し、とめどなく戦乱が続いてどうしようもない状況が続いていました。混迷を極める出口の見えない世の混乱期の中、地方の小領主から天下統一という事業を実現に近づけた武将が織田信長でした。

源義経に比べ、織田信長の印象は随分と違います。判官贔屓(はんがんびいき)という言葉がありますが、判官とは義経の官位に由来し、誰もが義経が不憫だ、可哀想だという感情を抱くように、不遇な立場にある者を応援したくなる気持ちを表す言葉です。日本人は情に流されやすい性質がありますので、そういった面でも義経はとても支持を集める武将です。

一方の織田信長も、あと一歩で天下統一できたのに志半ばで家臣に裏切られたという点では同情されているとは思います。既成概念に捕らわれず、旧体制を打ち破り、乱世を治めるべく、強大な武力で敵対勢力をことごとく滅ぼした。それにも関わらず次の時代に移る手前で非業の最後を遂げた。こういう部分には共通点が見出せるかと思います。

しかし、人物のイメージとしては全く違います。義経の幼少期である牛若丸の時から一貫してハンサムなヒーロー像が浮かびます。短命だったせいか、可憐な人物といった風に考えられて来たからでしょうか。

一方の信長の青年期は、その奇抜出で立ちや行動から大うつけと呼ばれるアウトローな存在でした。後に、第六天魔王(仏の敵)と呼ばれるように、敵対する勢力ばかりか自勢力の家中からも恐れられる存在でした。

逆らう者はだれであっても容赦しませんでした。なんせ、日本の人口が1000万人程度だった当時、信長の起こした戦によって10万人という、当時の総人口の1%が亡くなったといわれています。

大うつけと呼ばれた青年期の信長は、織田家の後継者として将来を危惧されていました。しかし、父の後を継いだ信長は武将としての非凡な才能をメキメキ発揮していきます。1551年(天文20)信長26歳の時に敵対していた弟を騙し討ちにして一族の対立を収拾し西尾張を統一し、1560(元禄3年)尾張に攻めこんできた東海一の弓取りと呼ばれた今川義元を桶狭間で討ち取るとうい華々しい戦果を挙げます。

兵力差は5倍〜10倍という劣勢の状況でした。籠城か、合戦に打って出るか軍議で意見が対立します。今川軍が接近しても全く動かない信長。しかし、松平元康と朝比奈泰朝が織田軍の守る丸根砦、鷲津砦に攻撃を開始する報を受けた信長は突如とし飛び起き、「人間五十年、下天の内を較ぶれば、夢幻の如く也。一度生をうけ、滅せぬ物の有る可きか。」の文句で有名な幸若舞「敦盛」を舞った後に出陣の身支度を整えます。

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実は神主の家系だった
織田信長

明け方の午前4時頃に居城である清洲城を出発。小姓衆5騎のみを引き連れて午前8時頃、熱田神社に到着します。その後軍勢を集めて熱田神宮に戦勝祈願を行ったといいます。

信長は後の1571年に比叡山を焼き討ちにした際には、山内の伽藍を一つ残らず焼き、僧俗男女を問わず3000人〜4000人を殺害。74年の伊勢長一向一揆では2万人を、翌年の越前一向一揆に3万人〜4万人を殺害するなど、仏教に対しては敵意むき出しでしたが、神は篤く信仰していたようです。

それもそのはず、織田家の祖先は福井県の劔神社の神職であったといわれています。織田信長はなんと神社の神主のお家の子だったのです。

しかもこの神社の御祭神は素戔嗚大神(スサノオ)ということです。劔(つるぎ)とスサノオはまさに荒ぶる力を示す組み合わせです。

そして、熱田神宮といえば前回も述べましたが、源頼朝の母が熱田の社家に生まれ、頼朝がその母の元で幼少期を過ごした神社です。熱田神宮HPによれば「ご祭神の熱田大神とは、三種の神器の一つである草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を御霊代(みたましろ)としてよらせられる天照大神のことです。」とのこと。

相殿には素戔嗚尊と日本武尊も祀られています。日本武尊が留め置いた草薙の剣を妃である宮簀媛命(みやすひめのみこと)が祀ったことが神社の創祀です。

スサノオ、ヤマトタケル。そして剣。荒ぶる力の系譜とアイテムが一つに繋がりました。

今川との決戦を前にした先祖が神主である信長が、必勝祈願の願文を読み上げます。すると、本殿の奥から甲冑の触れ合う音が聞こえ、一羽の白鷺が舞い立つという吉兆が顕れたそうです。白鷺(しらさぎ)といえばヤマトタケル の神使とされている鳥です。

信長は「熱田の大神が我々を護り、勝利に導くしるしである」と兵達を鼓舞しました。その時熱田には2000人近い兵達が集まっていたといいます。士気が最高に高まった軍勢を率いて、今川軍が本陣を置く桶狭間に向かい、攻撃の機会を窺います。そして、猛烈な雨が降り出したのを機に、信長は一挙に今川軍本陣に奇襲をかけ、見事、今川義元を討ち取ったというわけです。

不思議なことに、天下人となる豊臣秀吉も熱田神宮のある尾張出身であり、江戸幕府を開いた徳川家康も、幼少期には信長とともに尾張で過ごしました。武力によって世を鎮めるためには、神代から続く「荒ぶる力の系譜」の神々の力を得る必要があるのではないかと思います。

タマシイを呼び込む
カミが降りる

スサノオがヤマタノオロチを退治した際、その尻尾から取り出した剣は、自然界に存在する荒ぶる神々の力の象徴そのものです。剣は本来自然界、すなわち神々にしかない生殺与奪の権限を人間に与えます。神の力を得た神主であり戦士でもある王は、従わない神や人を剣の力で平定していきます。

ヤマトタケルは尾張の国の大高町火上山に草薙の剣を留め置き、伊吹の山の神を退治しに行って身罷られました。信長も秀吉の毛利攻めの援軍要請に応えて向かう途中の京都本能寺にて、軍備も兵も無いところを明智光秀に急襲され、自害し命を落とします。歴史は神話の繰り返しのように思えます。

『折口信夫全集第二十巻』(中公文庫)より

・たましひは肉体に常に在るものとは考えていなかった
・肉体はたましひの一時的、仮の宿りにすぎない
・たましひはいつでも外からやってきて人間の肉体に宿り、宿った瞬間から、そのたましひの持つだけの威力を、宿られた人が持つことになる
・宿ったたましひが遊離し肉体を去ると、そのたましひの持つ威力も失うことになる
(p.199から200より抽出解釈)

日本人の霊魂感の説明として度々引用する折口信夫先生の説明ですが、古来より神様の強力な御霊の力、御稜威(みいつ)・恩頼(みたまのふゆ)ともいいますが、それを自身に取り込むことで力を得ることが重要視されてきました。

しかし、魂が遊離し肉体を去ってしまうと、その魂の持つ力も失ってしまうということを、神話や歴史が教えてくれているのかもしれません。

人は状態によって神懸かり的なパフォーマンスを発揮します。スポーツや芸能、芸術からそれを感じることができるかと思います。しかしそれを常に発揮し続けるのは難しいことです。スポーツ選手、俳優、音楽家、芸術家といった人々の中で、「最盛期こそ輝かしかった」という人も少なくはありません。

荒ぶる力の継承者からその魂が離れると、即命を落とすことに繋がるのはなんとも悲惨な運命のように思えまが、乱れた世の中を鎮めるのに必要な役割です。

この後の歴史で、明治維新や大東亜戦争においてもこの力が発揮されたのかもしれませんが、詳しく検証してません。そのうち調べてみたいと思いますが、今回でこのシリーズ記事はとりあえずここで終わります。




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